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ショートショート『子午線スリップ』

俺は、自分の両手を見てギョッとした。甲に浮いていた血管は沈み、骨ばっていたのが綺麗に丸みを帯びている。そして、何より小さい。まるで子どもの手だった。

「あら、起きたの?」

前から声がして、こちらを振り返る顔に息が止まった。母親なのだが、現在の母親ではない。前に座っているのは、若かりし頃の母親だった。

「怖い夢でも見た?」

助手席から心配そうにしている。

「おい、返事くらいしろ」

運転席からの野太い警告に胸がキュッと締め付けられる。父親だ。もう何十年も会っていないのに、どうしてここに? ルームミラーに映る顔は凛々しく、年老いてはいない。さらに衝撃を受けたのは、自分の姿だ。それは、子どもそのもの。もうわけがわからない。きっと悪い夢でも見ているのだろう。

「返事は?」

「だ、だいじょうぶ」

二度目の警告を受け、自分の声とは思えない甲高い声で俺は弱々しく返事した。夢だとわかっていても、父親に抗えないのが情けなく、もどかしい。

俺は、妻と娘と一緒にプールに向かって高速道路を走っていた、はずだ。世の中は夏休み真っ只中で、道路は大渋滞。なかなか進まず、指でハンドルを叩きながらイライラしていたところまでは覚えている。

「パパ、なんでだまってるのー」

「あなた、楽しそうにしてよ、せっかくの夏休みなのに」

小学生になって口が立つようになった娘と、妻からの指摘が非難に聞こえて、余計にイライラが募った。こっちの気も知らないで。

そういえば、最後に見た景色も微かに記憶に残っている。子午線の看板標識だ。東経一三五度 日本標準時 子午線。水色の看板標識は、俺が子どもだった頃から、高速道路上にある。懐かしい。そう思ったのが、最後だったような気がする。

後部座席に座っていると、あることに気が付いた。走ってきた道を戻っている。反対車線を走っているのだ。

「母さん、今からどこ行くの?」

「え? おかしなことを言う子ね。家に帰るに決まってるでしょ」

母は「寝ぼけているのかしら」と笑っている。父は無言のままだ。夢にしてはリアリティがありすぎる。頬をつねってみると痛いし、試しに太もももつねってみたが、当然のように痛い。

それにしても、妻と娘はどこに行ってしまったのか。もしかして、消えてしまったのか。この想像に恐怖をもたらす一つの説がよぎり、俺は震えた。大人になって妻と出会い結婚し、娘が生まれる。あっちが夢だったのではないだろうか。目が熱くなり、じんわりと涙が込み上げてくる。泣いているのがバレないように、こっそりと鼻をすすり、涙を拭った。

到着した戸建ての家は、すでに他の人の手に渡っているはずなのに、父も母も我が物顔で入って行く。自分の家だとすれば、当たり前といえば当たり前だ。

やっぱり、こっちが現実なんだ。風呂に入り、パジャマに着替え、父と母と夕食を食べた。母が作るハンバーグは、相変わらずおいしい。みじん切りしたピーマンを隠して入れてあることを大人になってから聞いたが、今はまだ知らないことになっているのだろう。

父は珍しく酒を飲まず、さっさと食べ終えると居間に寝転がってテレビで野球中継を見始めた。食べ終えた俺は、父の背中の後ろで体育座りをした。何をすれば良いのか、手持ちぶさたで、野球中継を見るしかない。母は台所で洗いものをしている。

夢にしては、長すぎたのではないか。夢の世界で結婚した妻や、生まれてきてくれた娘との思い出はいっぱいで、十分すぎるほどの愛情を持ってしまっている。人生をやり直せるとか、前向きな気持ちには到底なれなかった。これから幾千もの選択を積み重ね、妻や娘に再び会える確率はどれくらいなんだろう。俺は、胸の中を掻きむしりたくなる衝動に駆られた。また涙が込み上げてくる。手で拭うが、今度はあふれ出て、どうにもならなかった。

 「おい」

寝転がっている父が声を発した。胸がキュッと締め付けられる。俺は、父親のことが苦手なんだ。わかっていたけど、改めて自覚した。

「言いたいことがあるんじゃないのか?」

父はテレビに顔を向けたままの状態で、じっと動かない。後ろから見つめる背中は、ちょっとした岩のようだ。娘が見ていた自分の背中も、こんなに大きかったのだろうか。

「ううん」

俺は小さく否定した。やり取りはそっけなく終わるのと思いきや、意外にも父は言葉を続けた。

「本当に良いんだな?」

そう言われても、こんな馬鹿げたことを正直に明かせるわけがない。自分は本当は大人で、結婚して妻も娘もいたのに、急に子どもになってしまったんだ、なんて。頭がおかしくなったのではないかと相手にされないどころか、厳格な父には「ふざけるな」と説教されるかもしれない。

ただ、父の背中には、何かを待っているような雰囲気が漂っている。こんなとき、決まって母が助け舟を出してくれるのだが、水の音で聞こえていないのか、居間を見向きもしない。

父が応援するチームのエースピッチャーが相手バッターを抑え、テレビCMが流れた。野球中継終了後に放送されるアニメ映画の予告だった。

『深夜12時になると魔法がとけて……』

このナレーションを聞き、俺はハッとした。何もわからない。何を起こせるかもわからない。でも直感的に、日付を跨いではいけないような気がした。日付を跨いでしまったら、もう元には戻れない。もう二度と妻や娘には会えない。俺は、丸みを帯びた手を強く握りしめた。

「父さん、お願いがあるんだ。今から僕を車に乗せて、高速道路を走ってほしい。子午線のところまで」

時間は20時を回っている。怒られたり拒否されたりしても、文句は言えない。むしろ、そのほうが健全な反応だ。

しかし、父は一息つくと、「わかった」と言って立ち上がってくれた。父が車の鍵を持って玄関に向かったので、俺はパジャマのままで急いで後を付いて行った。ふと台所に視線をやると、母はずっと洗いものをしている。

「母さん、行ってきます」

明るく見送ってくれると思ったけど、母は頷くだけだった。

父が運転する車で、俺は後部座席に座っていた。さっきと同じところに座っておきたかったし、助手席に座るのが気まずいのもある。父と俺との間に会話はない。エンジン音と、たまにウィンカーの音だけが響いている。

車は、インターチェンジから高速道路に入り、スピードを上げた。子午線の看板標識まで20分ほど。手のひらには汗をびっしょりかいている。自分を落ち着かせるように深呼吸し、汗をパジャマのズボンで拭いた。

 「外に出かけるときはハンカチくらい持っておけ」

この言葉に鼻の奥がツンとする。俺が、よく娘に言っている言葉だ。

父は、すべてを知っているのかもしれない。毎晩お酒を飲む父が、今日に限ってアルコールを摂取しなかった。お酒を飲めば、車を運転できなくなる。それを見越していたのではないだろうか。

取っ付きにくい父親だが、思い返せば、いつも優先していたのは家族であり、俺のことだったのではないかと、最近になって考えるようになった。別に父を許そうとしているのではない。たぶん、自分を正当化しているだけだ。俺が今朝イライラしていたのも、道が混む前に娘をプールに連れて行ってやりたい、早く遊ばせてやりたいという親心からだった。それなのに予定より準備に時間がかかり、渋滞に巻き込まれてしまった。おそらく、この気持ちは妻や娘に伝わっていない。

けど、それじゃ駄目だ。これじゃ、父と同じじゃないか。残念ながら血は争えず、遺伝子は確実に受け継がれてしまっている。家族や子を思う反面、父は不器用さゆえに言葉にできなかったことも多々あったのだろう。それが家族の破綻につながった。俺は、どうする。繰り返してしまうのか。

水色の看板標識が見え、近づいてくる。東経一三五度 日本標準時 子午線。俺は、目をつぶって祈った。

 
「パパ、おしゃべりしてよー」

俺は、血管の浮いた骨ばった手でハンドルを握っている。ルームミラーを一瞥すると、娘が頬を膨らましていた。よかった、戻れたんだ。泣きそうになるのを堪えた。

「あ、ごめん、ごめん」

「あら、パパが素直に謝るなんて、こんなに晴れてるのに雨が降るかもね」

助手席に座る妻が冗談交じりに皮肉を言うので、苦笑いをするしかなかった。


子午線を跨ぐ直前、父はこう言った。

「お前は、うまくやれ」

fin.

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