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ショートショート『ママのパン』

うっすらと目を開ける。窓の外の世界はまだ暗い。太陽が現れるまで、もうしばらく時間がかかりそうだ。最近は仕事が忙しいからか、朝まで熟睡できないことが多い。脳が興奮状態のままなのだろう。ボクの部屋には二段ベッドが二つあって、ボクは足元の方にある扉から見て左側の上で寝ている。他の奴らが起きている気配はない。暗闇の中、少し開いたままの扉から一筋の黄色い光が差し込んでいる。ちょうど、ボクのふくらはぎくらいまでを照らしていた。と同時に、香ばしいにおいが鼻をかすめる。

ママだ。ママが今日もパンを焼いてくれている。

ボクらのママは、朝食のパンだけは必ず焼いてくれる。小麦粉をこねて生地をつくり、キッチンに備え付けられた大きなオーブンで焼き上げる。夜明け前、焼き上がるパンのにおいで目覚めたことはもう数えきれないほどある。近所の工事や酔っぱらいの叫び声みたいな騒音で起こされるのは御免だけど、寝起きで意識が朦朧としたままパンのにおいを嗅ぐと、かたいベッドにどれだけ深く沈んでいても、身体が浮遊したような錯覚に包まれる。こんな話を他の奴らにもしたことがあるけど、何を大げさなと笑われた。それでも、奴らもママが淹れてくれたコーヒーでパンを一気に流し込むとき、とてもやさしい顔になる。仕事場では見たことのない表情をする。

そうそう、ママはコーヒーを淹れるのも上手だ。粗めに挽いた豆の上から円を描くようにゆっくりとお湯を注ぐと、コポコポとコーヒーが細かい泡を立てる。その香りは、起床を知らせるために響き渡る鐘の音より早く部屋に届く。コーヒーの香りで他の奴らも起きてくれたら良いのに。ボクは朝っぱらから荒く鳴る鐘の音が好きではなかった。

同じ部屋の奴らとダイニングに向かうと、もう他の仲間は席について朝食をとっていた。ほとんどと言っていい全員が嬉しそうに、パンを、コーヒーを、口に運ぶ。ただ、食べ終えるとすぐに部屋に戻り、仕事に出向くための支度を淡々と始める。まるでベルトコンベアのように機械的に。朝の短い尊い時間。ボクはできるだけゆっくりとかみしめたい。

ボクには朝の鐘よりも嫌いなものがある。それは仕事だ。なぜ、やらなければならないのかわからないし、この仕事に喜びを感じることもない。こういう話をすると、パンのにおいを話題にしたときとは比べものにならないほどの、軽蔑したような眼差しを送られる。ここでも、仕事場でも。それもあってか、ボクにとっては、毎朝ママが作ってくれるおいしいパンが救いになっている。週に一度のお休みの夜には明日が来ることに憂鬱になるが、ママのパンのことを思えば朝の訪れが待ち遠しくなる。

そんなママに一度だけ聞いたことがある。あんなにもおいしいパンを焼けるのに、どうして夕食は作ってくれないの?と。

どんなことがあっても、ママは朝食のためにパンを焼くことを休まない。毎日、絶対に。用意される夕飯は本当にぞんざいで、正直おいしくない。ママからの返事はなかった。だから推測でしかないけど、ボクらに対するせめてものねぎらいであったり、応援であったり、そういう意味が込められているのかもしれない。事実、朝になるとお腹が空っぽだから、においを鼻からいっぱい吸い込みながらパンを食べたときの幸福感は言い表しようがない。

ありがとう、ママ。

いつもボクらのために。

仕事、好きじゃないけど行ってくるよ。

パンでお腹を満たしたボクらは、銃を抱えて今日もたくさんの人を殺す。

fin.

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