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はじめての茶碗いっぱいの水飴

 小学生の頃、遊び場といえば神社の境内だった。子供たちが駆けまわり、ボール遊びをするに十分な広さがあって、夕方になると「紙芝居やさん」と呼ばれるお爺さんがやってくる。

 なぜ「紙芝居やさん」と呼ぶのか私の世代には謎だったが、名称として子供たちは受け入れていた。母によれば以前は本当に紙芝居をやっていたのだという。その当時から使われているだろう、たくさんの小さな引き出しが付いた四角い木製の箱を自転車の荷台に乗せていた。

 所定の位置に自転車を止め、絵の入っていない木枠を立てると子供たちはお爺さんに群がった。3円から30円までの駄菓子を販売していたからだ。

 人気商品は「うさぎ」とか「いぬ」とか「ぱんだ」と名付けられたお爺さん手製のお菓子で、割りばしに絡めとった水飴を薄焼きせんべいで挟み、あんこで目鼻や口を書いて、割った薄焼きせんべいを耳に見立てて差し込んだものだった。

 時々、うっかりせんべいを割ってしまったりするのはご愛敬で、その場合サービスをしてくれたから子供にとってはラッキーだったかもしれない。

 水飴だけ買うと割りばしに絡めとって渡してくれるのだが、幼馴染は透明な水飴が白くなるまで練ってから食べたほうが美味しいと言い張っていた。私もそうしていたが、果たして意味があったのかどうか、今でもわからない。

 そんな「紙芝居やさん」も私が四年生くらいの頃から見なくなってしまったが、思いがけない再会をする。なんと、マンガの上手いS君(はじめての完敗)の祖父だったのだ。

 S君が外へ遊びに行かなかった理由は、寝たきりのお爺さんを一人にできないからだった。彼が学校から戻ると母親はパートに出てしまい夕方まで戻らない。その間、お爺さんの様子を見ているよう言いつけられていた。だから私が遊びに行った時も、お爺さんの寝ている部屋で絵を描いていた。

 目を覚ましている時はお爺さんとも話した。子供ゆえの無邪気さで「病気が治ったらまた紙芝居やさんしてよ」と言うと、いつも「そのつもりだよ」と答えてくれた。

 ある時、お爺さんが「水飴は好きかい」と聞くので「好き」と答えると、部屋の隅にある木箱を指差して「中に水飴の瓶があるから、勝手に取って食べていいよ」と言った。

 人のものを勝手には取れない、と断ると、お爺さんはS君に命じて茶碗を持って来させ、そこに水飴をたっぷり注がせた。S君いわく、食べたい時は勝手にそうしているらしい。

「じゃあ、はい。御馳走しますよ」

 それは小さな夢が叶った瞬間だった。いつも一口ぶんの大きさしか食べられなかった水飴が、ずっしりと両手の中にある。スプーンですくって口の中いっぱいに放り込める。私はよほど必死に食べていたに違いない。お爺さんはニコニコして言った。「嬉しいなぁ。水飴が大好きなんだね。その瓶ごとあげたいくらいだ」

 さすがにそれは親に叱られるような気がした。それに、水飴が無くなったら「紙芝居やさん」もできなくなってしまうではないか、と断った。お爺さんはどんな気持ちだったろう。もう「紙芝居やさん」はできないと、たぶん知っていた。

 その後S君とは疎遠になり、お爺さんとも会わなくなった。母からお爺さんが亡くなったこととS君が引っ越していたことを後になって聞き、しんみりと思い出に浸った。

「紙芝居やさんて、儲けあったのかなぁ。あの値段で」

「ほとんど儲けは無かったんだって。S君のお父さんが亡くなった後、お母さんは実家に戻りたかったんだけど、紙芝居は生きがいだから絶対やめないって言い張るから仕方なくスーパーでパートしてたんだよ。お爺さん一人にはできないじゃない?」

 母の言葉には非難の響きがあった。そういえばスーパーでよく立ち話をしていた。

「それで亡くなった後、お母さんの実家に戻ったってことみたいよ」

 戦争を生き延びて、子供相手に紙芝居を始めたお爺さん。それが生きがいだという言葉にはどんな想いがあったのだろう。

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