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転び方を学ぼう。チョークー的ジョギング法の巻

ジョギングを始めて、もう10年以上になる。友人から「もっと痩せなきゃ」って言われたのがきっかけである。当時、体重が90キロ近くあった。友人の言葉を聞いた翌日から走り出したのではあるが、当然のことながら短い距離しか走れない。それでも何カ月、何年かけて、少しずつ距離が伸びていって、今は毎日8キロほど走っている。

***よう歩いとりますなあ、って、あんた

マラソン大会に出場したり、自己ベストを目指すものではないのであるが、毎日継続することによって、体重も70キロ前半の数値に落ち着いてきた。ボクの場合は「スロージョギング」と言われる程度の走りなので、誠に残念
なことに時々「よく歩いていますね」なんて言われてしまう。

健康のために始めたジョギングが今となっては身体や精神を整える生活習慣にもなっていて、瞑想と両輪にする程、ボクにとって重要なトレーニングにもなっている。瞑想は「静」、ジョギングは「動」という対照的な行為であるのだけれど、ジョギングによる身体的効果が瞑想にも影響しているように感じられるし、ジョギング中にさまざまなるアイディアや言葉、センテンスが生まれてきたりして、身体と精神とが別々に機能しているというよりは、「心身一如」という言葉通り、密接に連動していることがよく分かる。

それこそ比叡山延暦寺で営まれる「千日回峰行」の阿闍梨さまが、毎日峰々を巡るその姿は、身体の運動と精神の瞑想とが同時的に養われているとしか言いようがなく、素晴らしく、そして非常に厳しい修行形体である。以前、原稿の中で「日常生活の平均化」ということを書いたことがあると記憶しているのであるが、1年365日の生活行動をなるべく変えず、平均化することによって、喜怒哀楽の振れ幅を小さくし、心を整えていくというボクの方法論もまんざら間違いがないのではないか、とチョッピリ自信を持っている。

***ただでは起きまへんでえ

ところで、還暦を越えた自分のジョギングを観察していると、あきまへんなあ、足が上がってません。たまに道路の段差につまずいて転んでしまうのである。段差と言ってもほんのちょっとでっせ。それでも足をひっかけてしまうのだ。田んぼ道で誰もいないところでならいいものの、大きな道路の歩道なんかで転んだ時にゃ、あんた、身体のケガや痛みは当然のこと、本当にどこかの穴に隠れてしまいたいほど恥ずかしい。

だって丸眼鏡のおっさんが大胆にひっくり返っているのだから、ドライバーのみなさんもビックリしていることだろう。大阪に出張した折、御堂筋の歩道で、大勢の前で転んだ時は、人生の中でもマックス恥ずかしかった。

それでもねえ、ワタシゃ思うんです。ただでは起きないぞ、とね。それがチョークー和尚の教訓でおます。転び方を少しずつ学んでいっているといってもいいかなあ。初めは身体を守りたいと思い手をついていたのであるが、手をつくと、けがや骨折につながりかねない。今は転ぶ身体に身を任せ、柔道の受け身の如く、大胆に転ぶようにしている。身体を守るのにはうってつけの試みだと自負しております。

***学びは一生

何事も経験です。転ぶことにも要領があるんですな。これまた本当に面白いことであるとつくづく感じている。

3月28日の四国放送「ラジオ大福」に出演した際、シンガーソングライターの皆谷尚美さんが生演奏をなさった。ボクはその演奏に合わせてスタジオ内でダンスを踊ってみたのであるが、あきまへん、足がもつれて転びそうになってしまった。

転びを学び、老化を学び、人というもの、一生勉強ですわ、愚僧チョークー、そう思っとるので、ごわす。合掌!
 (マルハラにならないよう、!で終わってみたけどどうかね)

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