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落第点の伽藍堂

何がどう、ということもない。
ただ、自然の摂理のようにそうであるとしか言いようのない事態なのだ。
自分を好くことができない、それのどこに問題があるというのか。それはもう、全くもって苛立たしいことではあるのだが。
……否、好く好かないですら言い表せない。
私は、私という存在を認められない。
こんな人間が、この世界に存在していいものであろうか。何故か心臓を与えられ脳を与えられ、人間などを自称している伽藍堂の人形のようなものではないか。
思考はする。
しかしけれども、その思考というものが酷く私の心身を痛め付けるのである。無駄に長々しいそれは、荒れる大海の如く干上がることをしないようであった。無情。
私は私を消し去りたいほどに認められないのであるが、しかしこの思考が自分へのリンチに歯止めをかける。私は、思考する私のことはさして憎んではいないようであるからだ。
とどのつまり、私は私を亡きものにせんと画策しながらも、汚く細々と生きさらばえることを望んでもいるのだ。
相反する思惑に、私の小さく穴だらけの脳味噌はパンク寸前、カラカラと空回りをして思考を極端に左右させる。
そんなことだから、一時は精神安定剤を飲み下して気を沈めねばならぬという羽目になった。滑稽を飛び越えて、感心だ。
薄く残る腕の傷跡も、戦いの記録なのだ。たいていの場合、負け戦ではあるが。
思考はし続けたい。それこそ、私であるから。
けれども、私自身の行動は実際目も当てられぬほど腐りきって反吐を禁じ得ぬ。どうしたものであろうか?
いっそのこと、かのゴッホのように己の体の一部を切り捨ててしまえば解決するのだろうか。有り得ない。
私は、彼に比べてあまりにも精神が脆弱すぎる。痛みというものに、恐怖を抱きすぎる。
だから、私は私なのだ。口ばかりは何やら達者と見えるが、中身は素寒貧。
どうしようもない。
願わくば、価値のあるものが外から放り投げられるといい。金とか、人間的求心力とか。
昨日の私は清々しく殺して、新しい私になるのだ。それは、私の究極の望みである。
神よ仏よ、と信じ奉る器は無きにしも、ちらりと視線を向けて気にする素振りはしている。だからもし、人智を超えた何かが存在するのなら、このちっぽけな願いの一つや二つ、忽ちのうちに叶うと信じる他ない。
他力本願上等。己の言葉など、己の心に届きはしないのだ。ひと様に頼って悪いことはない。
如何にしても、時は進む。