哲学に「現代物理学」は必要なのか?―物理主義とその問題点―


はじめに―哲学には「現代物理学」が必要らしい―

 ここ数日、Twitter(のおそらくごくごく一部のアカデミック界隈で)で激論が交わされている命題がある。「『現代物理学』をバイパスしては良い哲学が出来ない」という命題だ。この主張を提示した物理学者によれば、人類は「ベル不等式の破れ等の現代物理学も知らないスピノザやハイデガーなどを、頭の中からきれいさっぱりと捨て去」らなければいけないらしい。「『存在』『実在』『時間』『空間』『宇宙』『世界』という大きな主語の哲学をしたい」ならば、「現代物理学」をバイパスしては「低い解像度」の論になるらしい。この命題について、人々はこう反論している。「『現代物理学』は一つの世界の解釈方法にすぎない」、「『哲学』の定義がブレブレである」、「物理帝国主義は一部の物理学者に根強く残っているのか」と。
 さて、本稿では、果たして本当に哲学が「現代物理学」を必要とするのかを論じたいと思う。本稿では、件の物理学者に代表される「物理主義」と、それに対する反例を提示したいと思う。

 「この部屋にいる生徒は,全員女子である」という命題が間違っていることを示すためには「この部屋にいるのは,全員男子である」ことを示す必要はなく,「男子が一人いる」ことを言えばよい.

 このように「全部が~である」という判断が正しいのは,本当に「全部が~である」ときだけで,1つでもそうでない例が見つかればこの命題は間違いであることになります.

高校数学の基本問題 反例
http://www.geisya.or.jp/~mwm48961/koukou/cond005.htm

我々が高校数学で学んだように、ある命題を否定したければ、それに対する反例を一つ提示すればそれで十分である。また、この営みにより、「哲学」の自然科学から独立した意義についても明らかにすることができるはずである。

物理主義―全ては物理学に還元される―

 哲学は現代的な物理学に依拠すべきだとしたのは、何も件の物理学者だけではない。

1972年にフィールドが『タルスキの真理論』と題された注 目すべき論文を発表した。そこでの彼の基本的な主張は,「真である」,「指示する」などの意味論的事実は, 化学的事実,生物学的事実,心理学的事実がそうされ得たと同様に,物理学的事実に還元されるべきであるという,物理主義の主張である。 しかし,原子価という化学的概念を原子の物理的性質によって説 明したのと同様に,物理主義者を満足させるような仕方で,真理や指示の概念を,文(語)と 事態(対 象)との間の,話 者 の神経生理学的機構をも巻き込んだ,物理的・因果的関係として説 明することは困難であるように思われる。

物理主義的真理論とは何か―フィールドのタルスキ批判をめぐって―(1992)
橋本康二
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/24546/1/1908.pdf 

上記の引用で取り上げた物理主義は、端的に言えば哲学―「真理」のような形而上学すらも―を物理学に還元すべきだという主張である。件の物理学者の主張も、この物理主義の範疇の中にあると言えるだろう。

社会構築主義は物理学に還元できるのか?

 では、ここでこの物理主義への反例を一つ示そう。前回記事で紹介した、社会哲学の主義の一つ、「社会構築主義」である。

このように、社会構築主義は元来「自己責任」である―つまり、特定の個人の本質である―とされていたことについて、それが社会という第三者によって構築されたものであるという指摘を行ってきた。実際、アルコール依存症すらも、個人の病気という視点ではなく、社会構造により引き起こされたものであるという研究もある。Holmes&Antellの研究は、アメリカ先住民の間のアルコール依存症問題において、その原因として先住民を圧迫する政治的・文化的抑圧の存在の可能性を指摘している※1。先住民たちのアルコール依存症の原因は、彼ら個人の体質や個人の怠慢のせいではなく、彼らを数百年間追い詰めてきた白人社会にあるのだ、ということだ。

※1 Holmes, M. D., & Antell, J. A. (2001). The Social Construction of American Indian Drinking: Perceptions of American Indian and White Officials. The Sociological Quarterly, 42(2), 151–173.

結局何が「自己責任」なのか?―社会構築主義とデカルトの実体二元論、「『自分』とは何か?」という問いについての一考―
good_boy

というのが社会構築主義の簡単な説明である。ネイティブ・アメリカンのアルコール依存症の例の他に、性差や学歴差などについても、個人の資質の問題ではなく社会に構築されたものとする考えである。ここで重要になってくるのは、何かが社会により「構築」されているかどうかを論じる時に「現代物理学」―量子力学や相対性理論―の知見が絶対的に必要であるのか、ということである。確かに、社会を構成するモノや人は究極的には量子により構成されている。社会が究極的には寄って立つ地球や太陽系、そして宇宙は、相対性理論に基づいて運動している。しかし、例えば(上野千鶴子氏が平成31年度の東大学部入学式での講演で語ったように)学歴差が個人の資質によるものではなく社会により構築されたものと論じる時に、超ひも理論やらベルの不等式の破れやらを考える必要はあるだろうか。あなたが「否」と答えるならば、「哲学が『現代物理学』を必要とするのか」という冒頭の問いに対しても同様の答えが導き出せるだろう。

おわりに―普遍性への執着―

 「はじめに」で提示された「哲学が『現代物理学』を必要とするのか」という問い―物理主義―に対し、本稿は「否」という結論を下す。
 
「哲学はすべての学問の揺籃である」と言われることがままある。それは、現代独自の「学問分野」とされている分野のほとんどが、哲学に原点を持つからである。それこそ物理学も、この世の全ては原子でできているとする原子論を唱えた古代ギリシアの哲学者デモクリトスにルーツを持つし、心理学も、人間の内面を考察しようとした哲学の試みが源流である。多くの学問が哲学の門下から離れた今、「哲学」というのは対象もアプローチも異なる「残り物」―形而上学など―の集まりにすぎないと言えるかもしれない。そのような「哲学」を、一緒くたにして語ることは多く見積もって困難であろう。さらに、件の物理学者の意見には、彼が非難するスピノザと同じような、「普遍性」への執着が見られてならない。スピノザは、「世界すべてが『神』である」という公理から、世界のあらゆる分野―存在論や道徳学―について演繹的に研究した。彼も、「哲学」には現代物理学の知見が必要になると語っている。このとき、彼も、彼が非難するスピノザも「普遍性」への執着を共通していると言えるのではないのだろうか。ともかく、この記事が皆さんの哲学探究に役に立てば幸いである。


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