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ライオンが死んだ

ほぼ週一で通う動物園があります。

まず何より、息子が動物が好きだからですが、ぼく自身も動物が好きです。

子育てにおいて持続可能なのは、親子が楽しめて、親子で楽しめる場所やアクティビティを持っていることだと思う。
その点で、動物園は、行くたびに変化や発見があって、それを見つける度に新しい感情や子どもとの会話が生まれる。


ヤマアラシたち、今日は離れてる・・・

フラミンゴの赤ちゃん、だいぶピンクになってる‼︎

「ダチョ、けがしてる」「ギブスしてるやん」


毎日のように通ってる人は、すぐに分かる。動物たちの反応が全く違うからだ。特にチンパンジーやオラウータンは、「一見さん」には、部屋の隅っこで背中を見せている。「鑑賞される」ことに辟易しているようだ。しかし、「お友達」とは、柵越しにお互いのジェスチャーに応え合っている。ぼくは、少し離れたところで両者を見る。「蚊帳の外」にいる。ちなみに今も、「一見さん以上お友達未満」だ。


行くたびに変化や発見のある動物園は、ワクワクするが、その変化は必ずしもポジティブなものとは限らない。

先日ライオンの部屋に行った時に、献花台があった。ライオンの「お友達」は、献花台を前にしてどんな気持ちになるのだろうか。
例えば、お葬式で悲しいのは、故人の死によるだけでなく、故人のもとに在った自分も消滅するからだと思う。このように、ヒトは、他者によって分節されてたくさんの人ができ、その集合体として存在している。平野啓一郎さんは、それを「分人」という概念で提唱したと理解している。

ライオンの「お友達」も、ライオンのもとに在った、在ることができた自分を喪った悲しみに包まれているのではないかと想像された。

ぼくは、ライオンとは「一見さん」と変わらない間柄なので、言わば理知的な悲しみを感じるだけだったが、よれよれの銀の色紙に「ありがとう」と書かれた子どもの手紙と、献花台の意味も分からず颯爽と走っていった息子を交互に見て、なぜか急に痛切に悲しくなってその場を退いた。

ライオンの死
献花台の子どもの手紙
走り去る息子



無垢なるものの死


不慮の連想は、ぼくを息子のもとへと遮二無二走らせた。

あなたの何かを、心許り充たせる記事をお届けするために。一杯の珈琲をいただきます。