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多言語環境の意義について。

先日、Instagramから連絡をいただき、hippoファミリークラブに参加しました。

様々な国の方々が集まって、レッスンというよりも、(その日は、)日本人の方々ばかりが集まり、各位が多言語を一生懸命に話し、それをみんなが温かく見守るという和やかな会が交流会が開かれていました。

ぼくは、カタコトの中国語で挨拶をしましたが、やはり言いたいことがうまく言えないなーと思いつつ、背中に汗をかいていました。
一方、参加者の皆さんと各位が連れてきた子どもたちが臆面もなく多言語で自己紹介しているのを見て、カタコトでも一生懸命に伝えようとする楽しそうな皆さんの姿を見て、ほほえましさと、憧憬と、ちょっぴり劣等感を覚えました。


しかし、ここでしかと留意しておくべきことは、お互いがお互いの言ってることをおそらく断片的にしか理解していないということです。


お互い何語で何を話しているかが分からないからこそ、自分の分かる範囲で言葉の断片をつかまえて必死に想像しようと、全身で傾聴していました。

それでも漠然とした感覚は残りますが、その感覚こそ共通言語としての機能を果たしているのではないかと強く思いました。

流暢に話せる人ばかりだと、どうしても壁ができてしまって疎外感が生まれてしまうだろうが、漠然とした、モヤのようなものがあるからこそ、それがみんなを包み込んでくれるのではないか。



ぼくは、多言語環境の意義は、単に多言語に触れられることではなく、それによって各自に生じる曖昧さによって、一種の共同性が生まれることだと考えました。



そして、特に言語がまだ未分化な子どもにとっては、この環境はとても有益だと思いました。
言語が分化してからだと、どうしても既習の言語の体系にあてはめて他言語を理解しようとしてしまい、つまり、頭で考えてしまい、母語を習得する時のような身体性を伴った自然なプロセスを体験できない。
だから、年齢を重ね、その言語環境が身体に浸透すればするほど、その言語体系は強化され、かえって他言語を受容しにくくなるのではないか。それに付随して、他言語が内包する文化や価値観をも認め難くもなるのではないか。


特に幼い子どもは、多言語どころか言語を用いているという感覚すらないと思われる。母国語よりも深い、言語化以前に、どれだけ多様な音声に触れられるかが、子どもの音域を広げ、言語を受容する器を広く柔軟にすると思います。そして、多様な価値観を受容できる豊かな心を育むのだと。


その意味で、この多言語環境は、非常に価値があると思いました。

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