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障害者と開く別世界への扉

 国立循環器病研究センターは大阪の北部、万博記念公園で有名な吹田市にあります。このセンターに検査のために入院していたことがあります。わたしは脳塞栓(そくせん)症という脳の血管に血栓が詰まる「病気」、というか、実感としては「事故」に遭遇し、右半身麻痺と失語症やその他の高次脳機能障害を経験しているのですが、なぜ血栓が詰まったのか理由がはっきりしなかったのです。わたしは高血圧や糖尿病(ダイアベティスとか高血糖症とかと呼び換えようと提案されています)といった脳血管障害につながる既往症はありません。しかし、理由がはっきりしないと、また脳塞栓(そくせん)症を起こしてしまいそうです。それで頭の先からつま先まで、念には念を入れて調べてもらったというわけです。

 ところが調べても調べても何も浮かび上がらない。今から20年ほど昔のことですから、今のように遺伝子を徹底的に調べ上げるゲノム解析が一般的でなかった時代です。何も浮かび上がらなかったというのも無理はありません――ゲノム解析が一般的になって、やはり国立循環器病研究センターで調べてもらって、なぜわたしが脳塞栓(そくせん)症になったのか、やっとその正体が分かりました。そんな不安な検査入院をしていたときの話です。

 ある日、わたしと同室になる男性がやって来ました。いかつい顔をしています。少し緊張します。それほど大柄ではありません。背丈はわたしと同じぐらいでしょうか。その男性は看護師や医師と話をする以外は何も話をしようとはしません。ずっとベッドで寝ています。時折は起き上がって窓辺に行くのですが、すぐにベッドに横たわるのです。まるで人と顔を合わせたくないかのようです。

 わたしは左手の訓練のために持ってきた子ども用のノートに字を書く練習をしたり、文庫本を読んだりして緊張をごまかしていました。それでも男性のことは気になります。字を書き終わったり、本にしおりを挟んだりしたときに、ちらちらと男性の姿を確かめるのです。

 こうして2日ほどが過ぎたころです。看護師と喋っていた男性が笑っていたのです。男性も緊張していたのでしょう。その緊張が解けて、普段の表情が戻ってきたのです。わたしは安心しました。不安に思う必要はなかったのです。話してみると男性はいかつい顔の割に朗らかでした(失礼)。その上、よく笑う人でした。物腰も丁寧です。

 午後3時を過ぎると、もう新たな検査の予定はありません。可能な日は、午後、ウォーキングをすることにしていました。一日の気分転換のためです。

「その辺を歩いて来ます」(わたしです)「行ってらっしゃい」(男性です)

 うろうろして、ゆっくり、ゆっくり歩いて病室に帰り着くと、男性の奥さんが着替えを持ってきたところでした。それを片付けながら、なぜこのセンターに入院したのか、その理由を話してくれました。もちろん、わたしが訊いたわけではありません。奥さんはもともと話し好きなのでしょう。

心臓が悪くて人工心臓を入れているが、血栓が飛んで脳梗塞(こうそく)になった。たぶん血液を送るポンプのぐあいが悪くて血栓ができたのだと思う。血栓ができなくする薬を飲んでいるが、うまく利いていないのかもしれない。

 脳梗塞(こうそく)になったと聞いて男性の指をよく見ると、左手の指が不自然な感じで伸びています。マヒした側の指は握りしめるように曲がる人が多いのですが、男性は伸びきっています。右手は自然な感じです。たぶん右脳の血管が詰まり、左半身にマヒが残ったのでしょう。

 奥さんは話を続けます。「この人、こんな顔してて気が小さいねん」

 「ブルドッグみたいな顔して恐がりなんやから。死ぬのが怖いねんて」

 ウォーキングで火照ったわたしが汗を拭くと、男性が「共用のシャワーは使えるはずやで」「看護師さんに言って、使わしてもらい」と言ってくれました。わたしは素直に応じて、タオルを持って階下に下りていきました。男性は初めての入院ではないことが分かりました。

    *

 「サイボーグ障害者」という言葉を知ってから、よく調べてみると「サイボーグ医療」という言葉に出くわしました(横井・千葉, 2008: サイボーグの現状と今後「計測と制御」)。パーキンソン病の人が身体の震えを抑えるために脳の深いところを刺激したり、ろう(聾)の赤ん坊が母語を覚える前に人工内耳を入れたり、電動義手や電動義肢、はては義歯まで、みな「サイボーグ医療」なのだということです。

 「サイボーグ医療」の研究者は工学部の方が多いのでしょうか。もちろん医学畑の人たちもいます。「サイボーグ医療」の研究者に共通して言えることは、ご自分の研究の将来に何の疑いも持っていない(らしい)ことです。そして生身の人間と機械は、必ず「つながる」ものだと信じている(らしい)ことです。そのことを示すよい例を探してみました。書いてある内容と言葉が難しいのですが、たとえば横井さんや千葉さんの「サイボーグの現状と今後」には、

装置を取り巻くシステム全体は,人や環境を構成要素に含んでおり,機械側から見た場合に入出力が開放系となるため,開放系の入出力先は,人や環境に接続されることとなる.すなわち,人や環境が介在してはじめてフィードバックループが完成することになるため,このようなシステムにおける問題の根源は,設計すべき機械が人や環境の不安定性などをすべて含めて目的達成を行わなければならないところにある.

横井・千葉, 2008「計測と制御」「サイボーグの現状と今後」p. 356

とありました。「サイボーグ医療」の研究者、つまり開発者は「生身の人間と機械」の接続は不安定なものだけれども、くふうによって必ずつながるものであり、そこを目標にしていると言っています。

 その目標どおり、人間に何の負荷もかからない機械ができるのなら良いのかもしれません。しかし「サイボーグ障害者」の元になったキム・チョヨプさんとキム・ウォニョンさんの本『サイボーグになる』を読んだ後では、重要なことがふたつ抜けていることに気が付きます。それは科学技術は科学技術だけの問題ではなく、文化や政治、経済の問題でもあること、そして「サイボーグ医療」の開発には、当事者である障害者や難病者が携わっていないことです。

 まず「科学技術は政治や経済の問題でもある」ことについてです。

 わたしも含めて研究者は、自前で研究を続けることはできません。まず研究費の問題があります。そして研究ができる施設の問題があります。これらをクリアーしないと研究が始まりません。そして日本の場合、研究費を誰に付けるかは各省庁や財団の采配が大きいのです。これは韓国はもちろん、欧米諸国でも同じだと思います。たとえば「サイボーグ医療」に一番関係の深い厚生労働省では、科学研究費補助金、通称「厚労科研費」では研究者がテーマを自由に設定するのではなく、あらかじめ課題が設定してあり、形式上、その課題が「解決できると考える研究者」が応募するという形をとります。文科省の科研費は比較的研究者の自由度が高いのですが(その代わり競争率が高い)、それでも高額の科研費では厚生労働省と同じようなくくりがあると認識しています。

 日本では日本学術会議の会員候補を政府が任命拒否したことが問題になりました。これなどはまさしく、どういう研究をするべきかを政治(や直接的にではなかったが経済)が決めようとしたのではないでしょうか。キム・チョヨプさんは『サイボーグになる』の中で、

科学技術社会論(Science and Technology Studies: STS)は、科学や技術、社会、文化をそれぞれ分離したものではなく、互いに関連した複合的な文脈の総体として捉える。科学技術の知識は文化、政治、経済的な文脈の中で生産、構成され、そうやって生産された知識はまた別の問いや問題を生み出す。科学技術社会論の学者たちは「科学技術は中立的、客観的である」という古くからの通念を破壊し、技術知識の生産に権力が関与していることを暴いてみせた。つまり科学技術社会論は、科学を否定するものではなく、科学技術知識の生産のされ方、利用のされ方を批判的に省察する学問なのだ。

Ⅱケアと修繕の想像力、キム・チョヨプ「7章 世界を再設計するサイボーグ」、p. 140

と述べています。この言葉を日本の研究現場の現状に当てはめると、「科学技術知識の生産のされ方、利用のされ方」に対する批判的省察が足りないことになります。

 次に「当事者である障害者や難病者が携わっていない」ことについてです。

 「私たちぬきに私たちのことを決めないで!(Nothing about us, without us!)」とは、前世界盲人連合会会長のキキ・ノルドストロームさんのスピーチにあった言葉だそうです。しかし「サイボーグ医療」の研究者が障害者や難病者であるという話は聞きません。障害者や難病者も、実はいらっしゃるのでしょうが(障害者はどこにでもいます)、キム・チョヨプさんの言い方に従うと「スティグマが強い社会であるほど、障害や病気を抱える人たちはそれを隠すことを選択する。わたしたちの想像する未来社会ではサイボーグが機械の身体を堂々と見せて闊歩しているけれど、現実世界のサイボーグは常に自分を隠して生きている」(『サイボーグになる』「5章 衝突するサイボーグ」、p. 101)となります。本当に障害者がどこにでもいるのだとすれば、「私たちぬきに私たちのことを決めないで!」という言葉は、まさに障害者にとっては葛藤と緊張の象徴にもなり得るものです。

 それにしても、本当に新しい技術が当事者抜きに開発できるものでしょうか。わたしは疑問を感じます。どうも、そこにはパターナリズムのにおいを感じるのです。もちろん「サイボーグ医療」の研究者は専門家です。障害者や難病者はただのしろうとに過ぎません。専門家がよかれと思って、一生懸命、研究をしている。障害者や難病者は専門家に身を任せていれば、良いようにしてくれる。「科学技術は中立的、客観的である」のだから、黙って科学技術の革新を受け入れれば良い。

 しかし、本当に障害者や難病者が最先端の科学技術の施しを受けたいと思っているのでしょうか。確かにそのような人もいます。ただ障害者や難病者の皆が皆、施しを受けたいと思っているのではありません。医療人類学に「素人の知識(lay knowledge)」という言葉があります。これは障害者や難病者の症状が落ち着いていて、もうそれ以上良くもならない代わりに悪くなることもない人たちが、日常の生活の中で身に付ける知恵や能力です。視力を失った人がコンピュータの読み上げをとんでもないスピードで理解できるようになったり、車椅子ユーザーの腕力が自然に鍛えられたりといったスキルです。当事者たちは、それを矯正して欲しいと思っているでしょうか。わたしは、半身マヒを矯正してくれるパワード・スーツがあれば、たとえば震災の後の瓦礫の山も乗り越えていくことができるのにと空想したこともありますが、しかし今は、少しばかりのデコボコ道なら、毎日のウォーキングを欠かさないようにしようと思っています。

 『サイボーグになる』の中にこんな発言がありました。

障害のある人が究極的に社会に受け入れられて一人の同等な市民になるためには、障害のある身体そのものが持っている力を示すべきだと思うんです。

「対談 キム・チョヨプ×キム・ウォニョン」、キム・ウォニョンの発言、p. 262

 また「おわりに」に書いていたキム・チョヨプさんの文章です。

そのサイボーグたちはわたしのそばにやって来て、疲れた顔で腰を下ろす。義足を外して手に持ち、実はこれちょっと邪魔だったんだよね、とぼやく。欠陥を抱えていてそれを隠したいと思っていて、克服しようとするけれど失敗し、結局はそのぽっかり空いた穴を自身の一部として受け入れる。そんなサイボーグたちを想像する。

キム・チョヨプ「おわりに」、p. 286

 国立循環器病研究センターに入院してきた人工心臓を入れた恐がりの男性は、その後、どうしているのでしょう。

 この文章の表題「障害者と開く別世界への扉」は、『サイボーグになる』の「おわりに」の最後の文章から取りました。

サイボーグの生活が実際には異質なもの同士の衝突、炎症、不快感、矛盾から成っているように、障害を抱えて生きる経験も常に衝突の連続だ。障害を構成する社会との戦いもあれば、けっして解決されることのない個人の固有な苦痛との戦いもある。けれど、できることなら、わたしはその衝突の中で、「陰の裏にある光」を見つけていきたい。人生は不幸なだけでも幸せなだけでもなく、不幸であると同時に幸せでもあると、悲しくも、また美しくもあると言いたい。わたしたちの不完全さは時に、別の世界への扉を開けてくれる。わたしは今、その事実を少し嬉しく思う。

キム・チョヨプ「おわりに」、p. 287



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