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【掌編小説】食い意地

「どうするかな、明日から」
 スギキはしゃがれた声でそう言って、家の外で折れた煙草をくわえながら寝そべる男の額に『回覧板』を放った。しわくちゃの紙に乱雑な字で書かれた回覧板を、風で飛ばされないよう男は自分の顔に押さえつける。
 この河川敷のホームレス界隈には回覧板を回す習慣がある。内容は、仲間の誰かが川に流されて行方不明なったこととか、大型スーパーが建った影響で懇意にしてくれていたパン屋が潰れたとかだ。今回の場合は後者だった。
 スギキは喘ぎながら痰を吐き出すと「俺たちも引っ越すか」と呟いて男の顔をじっと見た。返答を欲しているが、男はそれに応えない。空腹で弱っている今、会話になどエネルギーを使いたくないからだ。
 男がホームレスになった頃、すでに残飯を分けてくれる店は、先週店じまいしたレストランと、一昨日潰れたパン屋だけだった。
 スギキは男の無視などお構いなく続ける。
「マサも昨日、食い扶持なくて引っ越したし。どっかでのたれ死んでなきゃいいけど」
「……いや、家ありますよ」
 男は弱弱しく起き上がって、三〇メートルほど離れたところにある段ボールで組まれたマサの家を指す。男にとって、それは初耳だった。
「そんなこと言ったって、一緒に自販機巡ろうと思って覗いたら、いないんだもん」
 男は「なんで誘ってくれなかった」と返そうとしたが、腹のことを考えてやめた。
 スギキは穴だらけのジャケットのポケットから、すすけた食べかけの食パンを取り出す。男はそれ奪うようにつかみ取り、貪った。来たばかりの時は見るだけでも吐き気を催していた腐りかけの弁当やパンも、今は喉から手が出るほど欲しい。不潔、清潔よりも、生きていくことの方が重要だと感じてから、男にとって口に含んで、咀嚼し、飲み込めそうなものは全て美味そうに見えた。
 スギキは男の肩を掴んで奪われた食パンを取り戻そうとしたが、食パンは全て男に頬張られていた。諦めた口調で男に言う。
「それ、隣に回しといてな」
 スギキは回覧板を指し、苦しそうに食パンを咀嚼する男に言った。男は橋の下に長く住んでいるらしい老人の家を見た。老人と話したことはないが、夜中に家を出ていく姿を何度か見たことがあった。戦争のころに敵軍に奇襲をかけたことを思い出して夜に放浪しているのだと、スギキから聞いていた。相当耄碌もうろくしていて、自分だけで敵の小隊を殲滅せんめつさせたとか、戦時中の自慢しかしないとも。
 男は「話すと面倒そうだ」と思い、回覧板を回すのがおっくうになった。
「明日には俺もいないぞ」と嫌味を吐いて家に戻っていくスギキを尻目に、食べかけの食パンだけでは満たされない腹をごまかすため、男は眠りに就いた。

 男が肌寒さに目を覚ましたのは夜だった。最近は寒暖差がはげしく、日中は暑いが、夜は寒い日が続いている。
 回覧板が手元にないのであたりを見渡すと、川岸の方まで吹き飛ばされているのを見つけた。取りに行くと、老人が家に入って行くのが目に入る。のそのそと歩く姿を見て、老人がやせ細っているわりには肩幅だけは広かったのを思い出す。
 手元の回覧板を見て、ちょうど良いと思った男は老人の家に向かった。
 橋の下に張られている青いビニールは、不自然なほど骨組みがしっかりしている。使用感はあるが、穴や傷はすべて補修が施されている。
 近寄ると、液体を吸い上げるような音がする。それに続いて、外まで聞こえるほど大きな咀嚼音。男にはその音がなんとも美味そうに感じ、腹が鳴った。少し動いて空腹を思い出した男は、老人に食べ物を分けてもらおうと、何重にもなったビニールの暖簾のれんを意気揚々と上げた。

 男の肌にねっとりとした温みが貼り付く。それを追う臭気に、目がくらむ。老人は、その肩幅よりも大きな何かに顔を埋めたまま、咀嚼音を鳴らし続けている。

 くっちゃ、ぺっちゃ、にっちゃ、じゅるる、ごきゅん
 
 外から流れる空気に気付き顔を上げた老人と目が合う。のそのそと男に近寄って回覧板をぐしゃりと掴むと野太く、しかし嗚咽のような声で老人は言った。

「ひとんちはいるときぐれえこえかけろ」

 僅かな月明かりに照らされた老人の顔が、真っ赤に滴っていたのが男の目に焼き付いた。
 老人は戻り、また一心不乱に貪りだす。男はそのさまをただ立ち尽くして、見ていた。老人の吸う音、噛む音、飲み込む音すべてが男にとって気味が悪かったが、それに勝る感情が抑えられなかった。
 横たわるマサの目を見ながら、男は言葉をこぼした。 

「少し分けてくれませんか」

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【罪状】不法投棄

パン屋が潰れた理由が、ホームレス達に売れ残りのパンをあげるべく、大量のパンを廃棄に回し店中に捨てまくっていたため。

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