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【掌編小説】残暑の意地

快丸かいまるクラブの78番。金曜の夜中1時に決まって、だよ」
 モリタが下卑た笑いを時折混ぜながら語ったのは、1年B組を揺るがす大ゴシップだった。
 高校入学後、初めての夏休みも終盤に差し掛かっていた。出不精をコロナのせいにしながら自堕落に、そうめんをすすり、オンラインゲームをし、かき氷を食べ、オンラインゲームをし、時々家族で外食をして、帰ってすぐオンラインゲームをし、寝落ちするだけの夏が終わろうとしていた。
 不満ではなかった。僕なりに充実はしていた。不完全燃焼の夏休みだとモリタにからかわれたが、元々燃えるものも、燃焼させる気もなかった。
 それが、8月30日、コンビニ前でガリガリ君を片手に、いま燃えている。
 妙に高鳴った心音を隠すように、アイスをしゃぶりながらモリタに返す。
「それ、本当に初海はつみなの?」
「ホントホント! 兄貴が初海の彼氏と同級生でさ、その辺の友達界隈から色々情報入ってくんだよ。間違いない。確実に、初海は彼氏と、快丸でヤッてる」
 快丸とは、ネットカフェ『快丸クラブ』の略称だ。作りかけで飽きてしまったプラモデルにも似た歯がゆさがある、新興住宅地と田畑が半端に混ざり合った地元を、毎夜煌々と照らしている地元唯一の遊び場、らしい。
 嬉々として繰り返されたそのゴシップへの動揺を笑って誤魔化す。
 動揺している理由はニつある。
 ひとつは、エロ漫画でしか読んだことがないような『ネットカフェで同級生がセックスしてる』という情報が非日常過ぎるから。第一、初海のイメージとはかけ離れている。
 もうひとつは、僕が初海を好きだから。関わりはほとんど持ったことがない。喋ったこともたった一度しかない。教室の隅でその週のジャンプの話をモリタとしていたときに、新連載作品『ライヴノート』の感想で意見が割れた。僕は、ジャンプにしては攻めたシリアスでサスペンス調な展開に期待感を持っていたが、モリタは次週からは読まない、と言う。剣も抜かない、拳も交えない、何の汗も飛ばない漫画をジャンプに載せるな、と怒ってすらいた。
 そこに、通りすがりの初海が一言投げた。
「モリタは子供なんだね」
 モリタは顔を真っ赤にして、ごちゃごちゃと初海の後ろ姿に悪態をついていたが、その横で僕は妙な火照りを感じていた。
 単純だとはわかっている。普段女子と話さない男子がちょっと優しくされただけで、その人に好意を抱いてしまう。それとまる切り同じだ。女子と好みが一瞬重なった嬉しさ、それがたまたま初海だった。それだけで、気持ちは初海を目で追うようになり、寝ても覚めても初海のことばかりになった。
 ダサいこと、なのだ。ダサいことだから、自分から初海に話しかけることのまま、夏休みに入った。その方がもっとダサいことなのに。
 そのモリタは僕の気持ちを露も知らずに、興奮状態で語り続ける。
「それでさ、その彼氏がヤカラなんだってよ。半グレなんじゃないかって、兄貴が言ってた。快丸にそいつがいくらか握らせて、78 番を専用室にしてるらしい。つまり快丸も黙認なんだよ。初海はさ、脅されてそんなトリッキーな性癖に無理やり付き合わされてんじゃないかって、心配してたよ。兄貴、初海に会ったこともないのに」
 モリタが自分で言って吹き出す。共感できずに、愛想笑いで返す。都市伝説のような尾ひれも付いているが、気持ちを落ち着ける要素にはなり得なかった。
 僕は依然として高まりを隠すために、目を見ず、なるべく冷静を装って訊いた。
「面白いけどさ、それを僕に伝えてどうしたいの」
 言ってすぐ後悔する。なんて自意識過剰な返答なんだ。
 しかし、モリタは更に語気を強めて言った。
「俺らで覗きに行こうって話じゃん! 明日金曜だろ? 夏休みの最終日の大イベント」
「なんで僕も。ひとりで行けば」クールに、クールに。
「だってほら、彼氏、半グレでしょ? 単身で突っ込む度胸はない」
「もうバレる想定じゃん。大体ヤカラっぽいってだけで半グレかどうかわかんないよ」
「そりゃそうだけどさ、怖いじゃん。海に沈められるかも。まあ俺、小学校から水泳やってたから全然平気だけど」
 泳ぎでどうこうできない状態にされるから、沈むんじゃないのかと思ったが、そんな下らないことはすぐに忘れた。頭の中には、好きな人のそんな姿を見に行くべきかどうか、だけが黒い雲のように充満していた。
 ラッキーだとは思う。しかし、それが好きな人ともなると別だ。苦しくなるほどの罪悪感。そして、彼氏がいたことへの、どこに当て付けるでもない悔しさ。しかも、その相手が半グレ風……そんな男のどこがいいんだろうと思いながら、野暮ったく、モリタと教室の隅で漫画の話ばかりして、部活にも入らず、他の輪を広げるコミュニケーション能力もなく、その努力もしない自分には、到底及びもしない男だと感じた。初海は思うよりもずっと高嶺の花なのだ。
 色んな感情が一気に押し寄せて、わけがわからなくなる。わかるのは、その全てがネガティブな感情であるということだけ。
「行く?」
 モリタの無邪気な問いが葛藤を遮る。
「行かないよ」
「なんだよ、行こうよ」
「行かないってば。ひとりで行ってこいって」
「だから、俺だけじゃ行けないんだよ」
 強がり、なのかもしれない。僕の苦悩を知らずに、どんどん熱気が高まるモリタが少し腹立たしかった。

 気付けば、溶けたアイスが指に滴っていた。指でモリタに向かってそれを弾く。
「きったね」
 モリタが避けて、同じようにやり返してくる。
 そうだ。僕の夏休みはこれでいいんだ。
 空っぽの夏休みに、無理に花を添えることなんてないんだ。
 そう自分に言い聞かせた。

 金曜日、深夜一時前。ごめん、モリタ。
 魔が差した。魔が差すことだってたまにはある。
 言い訳を何度も頭の中で復唱しながら、僕はひとり、快丸クラブへと自転車を走らせていた。
 モリタと別れてから、今まで、ずっと悶々としていた。
 考えれば考えるほど、初海に彼氏がいたことに落ち込んでいき、自分では届かぬ人だったのだと痛感した。届かせようともしないまま。
 届かぬ人、と理解してしまったのが不味かったのだ。ならば、好きな人のそんな姿を見られるチャンスなど二度と来ない。
 いっそ、彼氏とセックスしてる姿を見て、これを恋の終わりと収めよう。
 無茶苦茶な言い訳である。
 これを単なる性欲だと認めたら死にたくなってしまいそうだから、必死に言い訳を繕っている。
 誰に責められるわけでもないのに。

 深呼吸を3、4度繰り返してから、快丸クラブに入る。
 3つ上の兄ちゃんの会員証を、じっとりと汗で濡れた手で提示する。年齢確認をされないために、何となく声を低めに応対する。髭も剃らずに来た。
 異様に長く感じる受付。エロ本を書店で初めて買った日を思い出した。
 どうにか、疑いの目をかけられることなく突破。出来れば78番の隣室が良かったが、そんなの指定する余裕なんてなかった。
 適当な漫画と、適当なドリンクを取り、足早に自分の部屋に入る。
 78番からは列が三つも離れている部屋。
 パソコンで時刻を見る。深夜1時10分。分かりきっているのに、金曜日だということも確認する。
 もう初海は部屋に入っているだろうか。
 嫌がる中、無理やりされているのだろうか。
 どんなプレイを強要されているのだろうか。
 不純な妄想が、胸の高鳴りとともに繰り広げられる。
 罪悪感はもうどこにもなかった。そんな自分を振り返らないよう、神経を集中させた。
 じっとしているのに、息が上がる。
 そして、荒い息のまま、部屋を出た。

 78番に早足で向かう。すれ違う客にぶつかりそうになり、「ごめんなさい!」と大声で謝罪してしまう。注目が集まったような気がしたが、足は止まらなかった。
 78番の前に立ち止まると、足が震えた。ここまで来てしまった。こんなところで躊躇すべきではないのだ。
 部屋の中から慌ただしい音が聞こえる。想像に反して、忙しい物音。
 僕は、恐る恐る、ゆっくりと、鼓動に合わせて背伸びをする。

「……はい! どうされました?」
 快丸クラブの従業員が掃除をしていた。フラット席のパソコン下に頭を埋め、ゴミを取っていたらしい。
 熱が体中から離散するのがわかった。
 なんだよ。
「あ、いや、すみません」
 短い言葉なのに、言い終わるまでに脱力して、尻すぼみに声は切れた。
 馬鹿だ。冷静になれば、嘘だってわかるじゃないか。
 モリタの話を聞いている間にだって、都市伝説みたいだと思っていたのに。
 大体、これって犯罪行為だろ。
 初海に熱を上げて、彼氏への嫉妬に狂って、覗きまっしぐらになっていた自分に落胆した。
 自室に戻ろう。少し寝たら、家に帰ろう。
 力の抜けた足をどうにか動かして、とぼとぼと78番の列から出た。

 そこに、噂の答えは、あった。
 初海がいた。学校での姿とはまるで別人のような、ギラついたメイクをした初海が。
 顔にタトゥーを入れた金ネックレスの巨漢に、肩を抱かれた初海が。
 列の入り口を塞ぐように、僕は動けなくなった。
「邪魔」
 巨漢がしゃがれた声を吐きつけ僕を睨みつける。
 吐息が荒くなるばかりで声が出ない。
 初海も僕を見る。次第に目が大きく見開いた。
「あれ? 君あれだよね、同じクラスの、えーっと、なんだっけ……」
 初海は片手で僕を指を差し、何度も手を額と行き来させる。「知り合い?」と訊く巨漢を尻目に、えーっと、えーっとと悩み続ける。
 そうか。覚えてないんだ。そうか。
 そりゃそうだ。ほとんど話したこともないんだから。
 やっぱりそうだ。届かない人だ。
「なんでもいいけどさ、そこ通らせろよ」
 巨漢が舌打ち混じりに言う。
 熱がまた引いた。でもさっきとは違う、はっきりとした諦めが、熱を散らしていた。
 恋が終わった。闘ってもいない恋が。
 そう思ったのに……初海が片手に『ライヴノート』の一巻を持っていた。出たばかりの、一巻を。
 魔が差したのだ。魔が差すことだってたまにはある。

「あの、彼女、嫌がってるんでやめてもらっていいですか」

 始業式が終わってから、初海が退学処分になったことを知った。
 モリタ曰く、援助交際が理由らしい。
 仕入先不明の根も葉もない噂だが、モリタの話には信憑性があった。昨日の夜、モリタの言うとおり初海がいたのだから。
 頬骨に出来た大きな青たんと、鼻を押さえたガーゼをモリタにからかわれた。
 兄ちゃんと喧嘩した、と嘘をついた。巨漢に殴られた、なんて言えない。
 殴られた後、鼻血を垂らしたまま、そそくさと快丸クラブから逃げた。
 自転車を走らせながら、泣いた。
 悲しかったからじゃない。悔しかったからじゃない。
 初海が殴られた僕を見て小さく「ごめんね」と言ってくれたのが、嬉しかったからだ。
 わかってる。言い訳だ。

 モリタが僕の傷を哀れんで、帰りに自販機でマウンテンデューを奢ってくれた。
 炭酸が口の傷に沁みた。
 いつもより甘く感じた。
「あ、雨だ。傘持ってきてない」
 灰色の空にモリタが呟く。
 明日から急激に冷え込むらしい。
 大粒の雨は見る間に強まっていく。
「僕も傘持ってきてないや。駅まで走る?」
「おう、じゃあ負けた方、明日ジュース奢りな」
「そんな約束しちゃっていいの? モリタ泣くことになるよ」
「言ってろよ! 俺、水泳小学校からやってたからね。足の速さ半端ないよ」
「水泳関係ないでしょ」
 そうだ。僕の夏休みはこれでよかったんだ。
 土の匂いが、夏の終わりを覆った。


 
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【罪状】名誉毀損罪

モリタがライヴノートに心無い言葉を投げたため。
 

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