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結婚式に呼ばれない

あ、まただ。と思う。

気がつけば友達が結婚していたことをFacebookに偶然上がってきた写真で知ったのは1回や2回じゃない。

公開された思い出にはしっかりと他の知り合いが笑っていてすこし寂しい気持ちになるものの、僕はよっぽど仲がいい人でないと欠席に○をつけてしまうので良かったとも思う。

「人の結婚式とか興味ないから」みたいな空気を演じてきたのは、ご祝儀がきびしくて普通に参加できないという恥ずかしい理由をごまかすためであった。

むこうも後藤は来ないだろうと見越して誘いを出さずにいてくれたのかもしれない。切なさもあるが、情けなさを回避できるほうが今の僕にはありがたい。


回避したのは祝い事だけではなかった。

仲がいいとも悪いとも言えない、若干お湯寄りの水ぐらいの知り合いからFacebookで突然メッセージが送られてきて、この人こんなに馴れ馴れしい喋り方だったかな?と疑問に思いつつ話を聞いているうちに、お肌が荒れない化粧品や髪がツヤツヤになるシャンプーを買わないかベイビーと営業される。

というようなことが人生で一度もないのだ。

世界は等価交換の原則でできていると鋼の錬金術師でも言っていた。「いらないものはいらねーから」と見えるスタンスは、知人の「あいつ呼ぼうよ」という気持ちと引き換えに少しの安心と商材勧誘へのバリケードを僕に与えたもうたのだった。

マルチ商材を売ろうとする人がどうにもうさんくさいのは「私のためにあなたに必要とされにいきます」という打算が透けて見えるからだ。

なぜそんなことが言えるかというと僕自身インフルエンサーマーケティングにハマっている時に、「必要とされたいから誰かのためになるつぶやきをしよう」と思ってツイートをしていたからだ。

あの頃はきっと野菜を食べなくても内臓の調子が整うビタミン剤をすすめてくる人ぐらい怪しかったに違いない。サングラス、ニット帽、マスクで外に出たら職質されても文句は言えない。悪意はなくとも怪しいものは怪しい。


小学生の終わりの会で「今日してもらったいいこと」を発表するコーナーがあった。その日、小野さんのランドセルをついでに取ってきて渡したことを自分から発表して「それは自分から言うことじゃないよ」と先生にたしなめられた。

素っ裸の下心をクラスメイト全員に見られることになり大変恥ずかしかった。

実は下心というのは隠していても滲み出るもので、先生が白日のもとに晒さずともバレてしまう。「必要とされたいという名の嫌われたくない」は不安に変わり心を蝕んだ。

いいね乞いの幽霊になった僕が触れるものもまた空虚だった。たまに何気無く出た言葉をポツリとつぶやくと無理していた時よりもたくさんの反応が返ってくることが何度かあって僕は現世に戻ってきた。

思ったことをただ言えばいいんだ。歌だってそうだ、みんなにいい曲だといってもらおうとしたものよりたった1人に書いた曲のほうが多くの人の心を打つ。

「愛はきっと奪うでも与えるでもなくて気がつけばそこにあるもの」

Mr.Childrenの名もなき詩のフレーズが春のやわらかい風のように通り抜けていった。

必要だから仲良くしてくれていた人は必要じゃなくなったら切れてしまう。そういう関係を求めるならばそれでいい。でも僕は「別に一緒にいて得かどうかわからないけど好きだから一緒にいるよ」って言ってくれる人にそばにいてほしいし、そういう風にして誰かと一緒にいたい。

結婚式に呼ばれなくたってまた会えばあの日みたいに楽しく話せる友達がいる。そういうのが嬉しいのだ。

[この記事の元になったツイート☺︎]

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