エゴじゃ人は救えない
救われるというのは「心が共鳴」することなのかもしれない。
強がれ、弱虫。をテーマに掲げて歌ったり書いたりしている僕の根幹には、自分のことを認めてあげたいという気持ちがある。
そして自分のことを本当に認めてあげられるのは自分しかいないということも、生きていく中でわかってきた。
だから自分と向き合うことをサボっている人がどうしても気になってしまう。それは僕自身がもともとそういうタイプだからで、サボればサボるほど自分を認めることから遠ざかっていく経験があるからだ。
そういう気持ちが人の気持ちを変えられたらというエゴになっていたのかもしれない。
飲み会でわいわい騒いで、ライブで思い切り盛り上がって満たされたような気がしても、帰りの電車ですぐに孤独が押し寄せてくる。パーティーの後にみんなが帰って静かになった部屋のゴミを片付けている時のような気持ち。
周りの人がすごく優しくしてくれているのに拭えない寂しさに潰されそうになる。暖房のきいた部屋に入ったけど体が芯から冷えているからずっと寒いときの感じ。
たぶん本当に満たされたい部分というのは表面、つまり周りの人間からはどうしようもないことなのだろう。
その孤独は、その寂しさは、きっと「あの日の僕」だから。
自分の中をタイムリープしてあの日の僕を抱きしめてあげられるのは自分しかいない。
そう考えた時に僕が誰かの気持ちを変えようなんておこがましい話だよなと思ったのだった。
救われた瞬間ってどんな時だっただろう?
もちろん音楽はそうだ。スタジオ練習で意見がぶつかってメンバーと険悪な空気になった時に、幸せの種という曲がセットリストに入っていて自分の曲に救われたりする。
ほらたとえば違うことでも初めは同じ種だったこと
もしぶつかることがあるなら 同じものを見てるってこと
難しく悩んでいる時に星野源さんの働く男という本を読んで、楽しいと思うこと素直にやればいいじゃん!と思うことができた。
ウルフルズのトータス松本さんのブログが弱音だらけで、こんなにすごい人も同じようなことで悩んでるんだと勇気をもらった。
逃げちゃダメだ。すべてのものにまっすぐ対峙するんだ。と窮屈だった時にプロ奢ラレヤーさんの生き方に触れてふっと気が緩んだ。
救われる時はいつも、誰かの生き方や考え方に自然と心が共鳴した時だった。
音というのは振動から生まれる。ギターをじゃらんと弾いた時、弦が振動してそれがボディーに共鳴して音が出る。だから弦の振動を止めると共鳴もなくなってしまう。
人にそれが違うよ、こうだよ。と言ってしまう時というのは、弦に触って音を止めてしまうことなんじゃないだろうか。
ギターをうまく弾ける人がいいプレイをする。それは振動になる。それを見てかっこいいなあ、やってみたいなあと思ってもらうことが人と人との共鳴なんだと思った。
何かを伝えたい人ほど、ナチュラルでいるべきなのかもしれない。
ひとまず僕はただ自分を生きることにもう少し集中してみたいなと思っている。
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ほらたとえば 同じことでも こんなに違って見えているよ
後藤大
シンガーソングライター/作曲家/文章書き
自分をみとめてあげられる瞬間が好き。
Twitter https://twitter.com/gotodai0926
MUSIC VIDEO https://goo.gl/E1ebEPjlVG
提供曲視聴 https://bit.ly/2EmR6sk
Next Live→2/27(水)22:00 ツイキャス定期ライブ
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