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外国語を学ぶと日本語が見えてくる

日本語もよく出来ないのに、外国語なんて無理…
外国語を学んでいるという話になると、誰かしらがこう言う。そこにあまり深い意味はなく、学びたくない理由に過ぎないということは理解している上で、本当にそうだろうかと考えてみる。
経験からくる私の意見は、「外国語を学ぶと日本語が見えてくる」だ。

日本語は多くを語らない言語である。言語はその言葉を話す人の思想の具現化であるから、日本人が多くを語ることを良しとしない民族なのではないかと思う。
そのひとつの表れとして「言葉の省略」がある。
直訳しにくい日本語としてよく挙げられるのが、飲食店での

私はコーヒー。

だ。
これを英語に直訳してみると

I am coffee.

となる。

日本語話者なら「私はコーヒー。」が「私はコーヒーが欲しいです」の意味であることは一目瞭然、何の違和感も持たない。
I am coffee. と訳してしまうようなヘマは誰もしないとしても、日本語をそっくりそのまま西欧言語にしてしまうと、とんでもなくおかしいことになってしまう。

何年も前から気になっている表現がある。

A: 犬を飼っていますか?
B: でも猫なら飼っています。

というときの「でも」だ。文字にしてみるとより違和感がハッキリする。
英語にしてみると

A: Do you have any dogs?
B: But I have a cat.

私はこの英文に非常に違和感を感じる。

A: 犬を飼っていますか?
B: いいえ…でも猫なら飼っています。

がナチュラルな日本語であり、

A: Do you have any dogs?
B: No, but I have a cat.

が英語として自然だ。

「でも猫なら飼っています。」
に「いいえ」が省かれていることは日本語話者ならわかる。
なぜ「いいえ」を省くのか学術的な理由は知らないが、「いいえ」に感じる否定の印象を過剰に捉えて、相手そのものを否定していると受け取られないようにする表れではないだろうか。

日本語における省略は、「察してもらう文化」の象徴で、あまねく語ろうとする西欧言語とは正反対の特徴を持っているように思える。
それが西欧言語を学ぶハードルになっているかは別として、外国語を通して日本語が、あるいは日本人の在り方が見えてくるのは興味深い。

だから冒頭の「日本語もよく出来ないのに、外国語なんて無理…」に対しての適切な返答は、「日本語をもっと出来るようになりたいのなら、外国語を学べ」なのだ。
もっとも、そのような人は日本語を積極的に学ぼうとしているわけではないから、ああそうですか、と言うしかない。

日本にいる限り、外国語が話せなくても生きていける。察するスキルを上げた方が、日本では生きやすいのかもしれないね。

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