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【楽曲語り】Love me for who I am・前編〜アイドルを超えた『アイ』の激情【まいにちFinally・day24】

こんにちは!灰色です。

本日の「まいふぁい」も引き続き、Finallyの最新曲「Love me for who I am」(以下、「ラブミー」)についての記事でございます。

下記リンクはApple Musicですが、それ以外も主要サブスクサービスで絶賛配信中ですので、お使いのものから是非お聴きください!

Finallyが展開している5ヶ月連続新曲リリース企画の第4弾として、ロックバンド・FABLED NUMBERプロデュースにより届けられた「ラブミー」。

前回の記事では歌詞の英語部分を自分なりに訳してみましたが、今回はさらに踏み込んだ楽曲語りとなります。

例によって相当に偏った稚拙な考察になるかとは思いますが、よろしければお付き合いください。

なお、今回も文字数が極めて多くなったため、前後編に分かれてお送りします。ご了承ください。



「Finallyらしさ」と「ラブミー」の衝撃

とんでもない魔球で来やがった。

初めてこの曲を聴いたとき、しばらくはそんな気持ちで脳が完全に埋まりました。

まっすぐ力強いストレートを最大の武器とするFinallyが、3/26ワンマンのひと月前に解禁した、変化球を超えた魔球

「ラブミー」は、そのように形容するより他にない何かでした。

何をもって、この曲を「魔球」と呼んだのか。

それを語るには、まずFinallyというグループとその楽曲の特徴に立ち返る必要があります。

Finallyというグループを至極簡単に紹介するならば、以下の点が最大の特徴として挙げられるでしょう。

・事務所に所属しないセルフプロデュースグループであり、メンバー自ら振り付け・歌詞・パート割り等を担当していること。

・ストレートで真摯なメッセージ性と、バンドサウンドが際立つキャッチーなメロディを併せ持った、ロックテイストの楽曲群を備えていること。

・各々がアイドルとしてのキャリアを経たのちに結成されたことで、洗練されたパフォーマンスと極めて高い表現力を持っていること。

こうしたポイントから、既存の「アイドルらしさ」の枠にとらわれない「ガールズロックグループ」と自らを位置づけて活動しているのが、Finallyという集団です。

あるいは「アイドルらしくない」ことこそが、「Finallyらしい」スタイルなのだとも言えるでしょう。

では、なぜそんなFinallyの歌う「ラブミー」が「魔球」だと感じられたのか。

それは、この曲が「アイドルらしさ」どころか、これまでの「Finallyらしさ」とさえも一線を画す、異色の作品だからに他なりません。

話が冒頭に戻りますが、「ラブミー」はFinallyが3/26に開催する自身初の生バンド編成ワンマンライブに向けて打ち出した、5ヶ月連続新曲リリース企画の第4弾です。

そしてこのシリーズの最初を飾ったのは、ロックバンド・感覚ピエロのVo&Gt・横山直弘氏がプロデュースした「Rock’n’roll Shooter」(以下、「ロッケン」)でした。

この曲は、例えるならば「必殺の変化球」。

官能的な歌詞・メロディと妖艶さの漂う振り付けで彼女たちの新たな魅力を引き出しつつも、サビはあくまでキャッチーに、一度見たら誰もが振りコピしたくなるLIVE特化の作りに。さらには独創的な転調を用いて「アイドルらしい」はっちゃけた遊びの要素まで盛り込んだ、予測不能な振り幅がインパクト抜群の楽曲です。

「ロッケン」も間違いなく、Finallyの得意な「直球ストレート」とは異なるテイストの曲でした。しかし、全編の圧倒的なキャッチーさ、ベースに代表されるバンドサウンドの強烈さ、そして彼女たちのポテンシャルを見事に引き出す多彩な仕掛けによって、披露されるたびFinallyというグループに馴染んでいったように感じられます。

またその過程において、彼女たちの表現力自体も「ロッケン」を自分たちのものにしていく中で大幅に進化しました。

しかし、「ラブミー」の衝撃は「ロッケン」ともまた別種のものでした。

ゆえに、この曲は「変化球」をも超えた「魔球」。

既存のルールが想定すらしていない、未知の存在。

そう評するより他になかったのです。


従来の「Finallyらしい」歌詞と楽曲

Finallyの楽曲世界は、結成から一年半ほどで既に「Finallyらしい歌詞」を確立してきました。

その核にあるものは、自分たちが日本武道館に立つ夢を絶対に叶えるという、確固たる意志です。

「Finally」という名そのものが象徴する通り、最後にして最大の戦いへと臨む決意と覚悟。

双方向性」※とも呼べる、自分たちとファン双方の心を奮い立たせる等身大の言霊。

※過去の記事で私が定義した用語です。以下の記事にて詳しく語っています。


こうした彼女たちの姿勢が、メンバー自身の作詞によってダイレクトに反映されているのが、従来の「Finallyらしい」歌詞です。

それゆえ、彼女たちの楽曲は「アイドルらしさ」から離れていることも珍しくありません。

夢景色のようにきらびやかな、永遠に続くアイドル的幻想を、Finallyは否定します。

夢は夢でも、彼女たちのそれは「最後の挑戦」で目指す場所です。

過去に抱えてきた悔しさや無力感といったネガティブな感情をも糧として、後ろ盾のない背水の陣で夢に挑戦する闘志は、その情熱に共鳴した者の胸を高鳴らせます。

しかしその代わりに、彼女たちの楽曲に「わちゃわちゃしたお祭り感」「現実を忘れられるバカ騒ぎ」「甘酸っぱい青春」「観客をメロメロにするかわいらしさ」といった特徴を持つものは、ごく限られています。※

※皆無ではなく現時点でも該当曲はありますが、代表曲のポジションにはないため割愛します。

切ない恋心を描いた1stシングル「君に咲いたリナリア」でさえも、徹底して片想いの苦しさを綴り、聴くものの胸を鷲掴みにするような歌唱法を貫くことで、♡や☆のマークが飛び交うような明るいラブソングとは、明らかに差別化されています。

さらに分かりやすい点を取り上げれば、現時点のFinallyの楽曲には「かわいい」「恋人」「女の子」「男の子」といったワードが一切用いられていないのです。

常に真剣勝負で、自分たちの信じる熱さとカッコよさを追求してきたFinally。

その楽曲もまた、強烈ながらもノリやすい、耳に残るビートを響かせます。

さらにLIVEパフォーマンスにおいては、技巧で魅せる高難度かつ激しいダンスと音源を遥かに凌駕するパワフルな歌唱が、見るもの全ての魂を揺さぶります。

ロック系のアイドルが珍しくなくなってきた現在でも、こういった「Finallyらしさ」が、彼女たちの存在感を別格のものとしているのです。


愛、I、アイ

しかし、「ラブミー」はそんなFinallyのイメージを自ら破壊するような楽曲でした。

トラックはサイバーな電子系が基調で、スタイリッシュ&ダンサブルな方向に特化しています。

その分、そこにはアイドルファンが普段のような方法で「遊ぶ」余地はないように感じられます。

さらにはサビも、これまでの楽曲のように分かりやすく盛り上がるのではなく、より尖った印象を受けます。キャッチーさからの脱却とも言えるでしょう

そして、極めつけは歌詞です。

サビ以外の大部分が英詞。

これは、楽曲を提供したFABLED NUMBERのスタイルとも共通しています。ラウド・ミクスチャーテイストを自在に取り入れ、英詞で独自色を発揮する同グループの表現法。

しかしもちろん、Finallyにとっては初めての試みです。

そして歌われている内容は、「ありのままの私らしさを愛して」というもの。

その激情が頂点に達するサビでは、「私だけ愛してよ」「私だけでいいでしょ?私を愛せ」「君だけ愛してる」「ふたりだけでいいでしょ?私が愛す」という、半ば病的・偏執的にさえ感じられる言葉たちが立て続けに爪を立ててきます。

「ラブミー」の世界には、かつてのFinallyの熱さ、カッコよさ、まっすぐな真摯さ、気高さ……そういったものはありません。

代わりにひたすら繰り返されるのは「」。「I (my, me)」という単語が圧倒的に目立ちます。

そして、極端に身勝手で第三者の存在を許さない「愛」。

私=Iと愛という二つの「アイ」が、全編を支配しています。

これほどまでに一方的でエゴイズムまみれの歌は、これまで私が抱いてきたFinallyのイメージからは程遠いどころか、正反対とさえ言えます。

その上、ほとんどが英語で、サウンドからはステージパフォーマンスがどのようになるのかも、到底想像がつきません。

高速で展開するメロディ、一回聴いただけではリリックを把握できない英詞、3番(大サビ)の不在。一般的なアイドルのLIVEで共有されている文法はおろか、Finallyの楽曲としても全くの異形です。

代わりにそこに流れているのは、聴くものに抱きついて離さないような「アイ」の暴風でした。


「らしさ」の先に見えたもの

これまでの「Finallyらしさ」を真っ向から否定しているとまで感じられた、魔球のごとき一曲。

しかし、それゆえに「ラブミー」は何度聴いても聴き足りない、何とかしてこの曲のことをもっと知りたい、と思わせる魔性の魅力に満ちてもいました。

そうして、この曲を聴き込んでいるうちに、いつしか私の脳裏には全く別の発想が生まれました。

それは、「Finallyイズム」とでもいうべきものの存在です。

「Finallyらしさ」を否定した楽曲から感じた「Finallyイズム」。

どう見ても完全に矛盾した戯言です。

けれども、私はこの発見を単なる思いつきの言葉遊びとして片付けることはできませんでした。

むしろ、考えを深めるほどに「Finallyイズム」という概念がしっくり来るようになり、どうしても語りたいという思いが膨らんだ末に、またしても独自解釈の楽曲語りに踏み切ったのです。

私が見出した「Finallyイズム」の萌芽。その詳細については、後編の記事にて触れていくことといたします。



これにて、「ラブミー」語り前編は終了です!

もちろん、この続きは後編にて。

それでは皆様、また次回の「まいふぁい」でお会いしましょう!

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