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一枚の自分史:九重への賛歌

ちょうど50年前、1972年の3月、大学を卒業して仕事を始めるまでには少しお休みがあった。すでに社会人になっている高校時代の友人と春の彼岸の連休を利用して、高校の修学旅行では大分、宮崎、鹿児島に行った、その時に行っていない県に行こうということで、熊本、長崎、福岡への旅をした。
友人は休みが終わり、一歩先に帰阪したが、まだ少し休みが残っている私は残って旅を続けた。

一人の旅は寂しかった。その日の久大本線は混んでいた。座席には座れずにガタガタとひどく揺れるデッキに立っていた。隣り合わせた山男は祖母傾山から降りてきたところだと言っていた。饒舌に九重の山の春夏秋冬を目を輝かせて語ってくれた。
遠く幾重にも重なる山並みを見ていたら、その九重にどうしても登りたくなった。一人で登ることに躊躇はなかった。

どのコースを使って登ったのか今となっては覚えていない。春まだ浅い九重だったが、難なく頂上に立った。確かそう思う。すれ違う登山者同士が声を掛け合って、一人で寂しいと思うことはなかった。 
学生という身分から放たれて、もうすぐ未知の世界へ飛び込んでいく、自由な時はもう終わるんだという一抹の寂しさを九重の山はやさしく受け止めてくれているようだった。 

それがきっかけになって、社会人の山岳会に所属して本格的な山登りを始めた。歩荷のトレーニングやロッククライミングの練習をして、信州の山には足繁く通った。仕事が休みの日は化粧もせずに山に通った。世間では第二次登山ブームが来ていた。 

結婚をして子育てと仕事で山から遠ざかっている間に、体力も脚力も気力も落ちた。切り立ったところや高いところが怖いと思うようになった。
子育てが一段落して少し自由になった頃、中高年の登山ブームがやってきた。 私にとっての第二次登山ブームだった。無理をしないスタイルの山行が気に入っていた。 そして再び九重を訪れるようになった。
九重はいつ訪ねても優しく迎えてくれた。 大阪からだとそんな近い場所ではないのだが、大阪南港から別府までのフェリーがあるので結構行きやすいところになっている。
登るコースもいくつかあって、いろいろなルートを通った。何処から登っても法華院温泉山荘は外せなかった。

定年退職してフリーになったら余計に仕事に追われることになって、いつも疲れていた。まずは気力がなくなり、そうこうしているうちに徐々に脚力、体力は落ちていった。気がついたらすでに体はガタガタで思うように山には行けなくなった。その上にコロナで家から出なくなるとなお拍車がかかった。
もう、九重にも往けないのだろうか、もう潮時なのかと思うと寂しかった。 一人で山に入る元気はない。いや入ってはいけないと思っている。

今回、 仕事がらみで博多まで行くことになった。
最近、キャンプや山歩きを始めた大分の友人を秋の九重に誘ってみた。 即、OK してくれた。もう一人、関東から鹿児島に仕事に来てその帰りに大分に寄ることになった友人も同行することになった。彼女も最近キャンプや山歩きの楽しさを知ったところだった。
幸いにも彼女たちは私より二十歳以上は若くて元気である。経験はあっても体力はない。体力はあっても経験はない。あるものを寄せ合って登るのもいいではないかと手前勝手な話であるが、なんともめぐり合わせがありがたかった。

いきなりの雨で、今回の山行はこれまでにないぐらい時間がかかったけれど、それでも坊がづるに着いた。
私はまたここにいる。また来ることができた。心が震えて涙がこぼれた。
紅葉は紅葉はちょうどピークを越えたところだった。ぎりぎりのタイミングで九重の秋に会えた。諦めなくてよかった。
信じられないぐらい脚力が低下している。膝の故障はゆっくりと慎重に歩いたので出なかったが、下りで踏ん張れなかった場面は何度かあった。次からはサポーターが必要になるだろう。足裏と甲の痛みは荷重によるもの、体重を落とすしかない。
やれ、筋肉は1ヶ月前から筋トレを始めているので筋肉痛は問題なかった。

春のミヤマキリシマに間に合うためには体重を落とし筋肉をつけて故障をカバーすることが肝要になる。春に向けて生活改善しよう。
心優しい友人達の力を借りて、九重の春夏秋冬を味わい尽くしたい。
まだ一度も行っていない冬の法華院、まだやっていない坊がづるでのテント泊、それらの実現を目指して今少し生活を見直すことにする。
72歳、まだ夢見る頃は過ぎてはいない。


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