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一枚の自分史:山日記:山にある幸せ、光の粒の舞う剣沢にて

剣岳ピークをピストンして剣沢テント場にて満たされて時間を過ごしていた。
この山旅の相棒は、1歳年下のガタイのいい女子だった。確か辻井さんだったと思う。この頃の山日記は、山道具と共に古い家に置いてきた。手元に残っている写真と記憶を辿るしかないのだ。

立山三山を縦走して別山乗越から剣御前小屋から剣沢でテントを張る。
女二人の天幕縦走であるにもかかわらず、私は体力も気力も充実していた。脚力もあるしバランスもすべてが最高の時だった。そして相棒の辻井さんも圧倒的な歩荷力と安定した体力に恵まれていた。そのころの天幕縦走の装備は今とは比べものにはならないぐらいの重量になった。それゆえに女子同士のパーティは少なかったのだ。
かなりの健脚ペースで歩いていたようだった。剣沢に着いて、テントを設営し終わる頃に、見覚えのある男子二人組がヘロヘロで到着した。
そのころ、私は社会人の山岳会に所属していた。辻井さんともそこで出会った。久保ちゃんはまだ10代の八百屋の小僧さんだった。大田君は大学生だった。その二人が、私たちを追いかけてきたのだ。だが、どうしても追いつかなかったらしい。
久保ちゃんは、稼いだお金は全部山につぎ込んでいた。次々と新鋭の山道具を揃えていった。そのころ私たちはそれらの道具を武器と呼んでいた。軽量化、機能化でフル装備しても、久保ちゃんはごく青二才だった。いつも無駄な動きが多くて、早々にダウンした。
大田君は普段は実験系のオタク学生だった。全く体力がなくて、すぐにバテた。
私たちは彼らが足手まといになるので誘わなかったのに勝手についてきたのだ。山岳会でも長女気質はセルフで発動していたらしい。年下からはいつも懐かれることになった。
翌朝、暗いうちから剣岳ピークを空身でピストンする。男子二人とは別行動した。私たちがかなり下ったところで、ひいひい言いながら登ってくるのに出会った。
私と辻井さんは余裕で剣沢に降りたら、充実感に酔いしれて、剣の雄姿を眺めながらぼんやりと過ごした。
岩場に反射する太陽光が粒になって四方八方に舞い散っていた。陽気な山屋たちの話す声がざわざわと押し寄せていた。コッヘルで炊く山飯の匂いに山にいる幸せをかみしめていた。
学生山岳部のテントが隣にあった。わーっと歓声が上がった。振り向くと、雪渓の中から大きなスイカを掘り出したところだった。もしかしたら片割れにでもありつけるかと、私たちはそれを頬張る学生たちの顔をずっと口を開けて見詰めていた。実際には食べてもいないのに妄想していた。ウン十年経った今でもあの甘いにおいと冷たい舌触りを覚えている。
いつも山行は男性の中に入ってどこか意識していたし緊張もしていた。女同士の気兼ねのない山旅は最高だった。
久保ちゃんのカメラは、プロ仕様のマミヤのカメラ、上から覗いてバシャっとシャッターを切る大型のカメラだった。それで、剣岳も、私も撮ってもらった。どんだけ~美しく撮れたかと大いに期待したが、露出が合っていない、太陽光が強すぎて、私の顔は真っ黒け!山に賭ける青春真っただ中の貴重な写真になるはずだったのに。
彼らが下りてくるのを待ってテントを撤収して、雪渓を下って、陽の落ちかける中で仙人ヒュッテ、池の平へと辿り着いた。陽が落ちたらテントを立てるのも水場を探すのも困難になる。二人の男子はしっかりついてきていた。露天風呂は月明かりが明る過ぎた。男子二人がいるので露天風呂は諦めて倒れるように眠りについた。
翌朝も飽きるぐらいただひたすら下った。途中、緊張しながら水平歩道を通過した。阿曽原まで出会うのは特大キスリングを担いだ女子大山岳部のつわものたちのみだった。天気が崩れる直前に欅平へ下山できてトロッコ電車で宇奈月温泉へと降りた。

24歳のあの頃は、親から結婚、結婚と迫られていた。見合い話を押し付けられて親子喧嘩に発展した。周囲では、ぽつぽつと結婚したという便りが届き始めていた。今の山に賭ける時間を失うことが嫌だった。同時に、どこかで終わらせないといけないと思っていた。
思いっきり手を広げて謳歌したいのに、なぜか膝を抱いて丸くなっている。そんな姿がそのころの私だった。
72歳の私から観たら剣岳もそのころの私も眩しいばかりだ。多分、親からうるさく言われなければ、もっとやり続けていただろう。やり切れていない、もっとやりたかったのにと未完了を抱き続けていた。私の人生のパターンがそこにあった。したいことがあってもどこかで我慢してしまう。膝を抱いて辛抱してきた。
すでに雄々しくて美しい時は過ぎた。今は山のピークに立ちたいとは思わない。あの頃のような情熱も体力もない。まず自信がない。
山は変わらずずっとそこにある、あの頃の自分にあったものが今はなく、あの頃の自分になかったものが今はある。
今はゆっくりと自分のペースで登ればいい。今の自分には今の登り方がある。そのピークには立てなくても、日がな一日眺めていられる場所までは行きたい。トレッキング、山カフェ巡り、山のいで湯巡りをする体力だけは維持し続けたい。
大好きな九重の法華院温泉まで春夏秋冬、四季折々に訪ねる、坊がつるでキャンプするのが新しい目標である。さてそのために何から始めようか。


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