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パンドラの箱(自分自身や他者)を開ける

パンドラの箱を開けると、あらゆる災厄が飛び出してきて、あわてて蓋を閉めたら、希望だけが残った、という話があります。

自己・他者との関わりも、この神話と同じかもしれません。

現状でそれなりにまわっている日常の中で、あえて自己を掘り下げたり、関わっている他者とコミュニケーションを交わして考えや感情に触れるという、いわば「箱を開ける」ことは特段「やらなければいけないこと」ではないかもしれません。

もし箱を開けてしまうと「災厄」を生み出すことにもなるかもしれません。見たくない自分・他者であったり、知りたくなかったことに気づいてしまったり、衝撃や刺激を感じる展開になる可能性があります。

だからある程度の向き合う覚悟や準備は必要かもしれません。

でも、そこに「箱」があれば、中身が気になってしまうのが人間の性でしょう。その「箱」は生きていれば意識の中に常に存在し続けます。

「箱」の中に残った「希望」とはこの場合なんでしょうか。

私はこの「希望」とは「ワクワク」だと思っています。探究心とでもいうのでしょうか。おそらく自己・他者を理解しきる、ということはできないでしょう。でも、理解しきることができないからこそ、常に「探求する」「ワクワクする」「関心をもって付き合う」ことになります。

災厄と同時に希望も手に入れた、とでも言えばいいでしょうか。

それが、良いことなのか、悪いことなのか、二元論的な回答は難しいでしょう。もっと複雑で捉えきれないものに気づいてしまった、という感じかもしれません。

特効薬はありませんので、一度箱を開けてしまったら、あきらめないで、怖がりながらも、少しずつコミュニケーションを重ねていきましょう。



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