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常識の消えた時代には、「話す・聴く」が必要だ

レヴィ・ストロースが文化相対主義の考えが世に出てから、半世紀以上の時間が経っていますが、この問題って学術的な問題ではなく、非常に日常的な問題として直面しているように感じます。

「常識」ってなにさ

どこまでが「常識」ってやつなんでしょうか?ということが見えなくなっているように感じるわけです。

「常識」・・・言い方は、何でもいいと思います。「当たり前」「普通」「社会的規範」「当然」「一般常識」「一般的」などなど。

なんとなくだけど、存在しているように感じていた、これらの概念の存在はガタガタに揺らいでいるように思います。

これは私自身がコーチングとかナラティブといったあたりの領域に踏み込んでいるから感じている個人的な感覚なのか。それとも社会の変化によるより広範に感じられていることなのか。ちょっと自信はないわけです(このくらい懐疑的に、優柔不断なくらいが今はちょうど良いのかもしれません)

個々に先天的・後天的にそれぞれの道のりを歩んできた結果として、思考や感情が生まれているわけで、そういった個々に持つ思考や感情は、皆個性的なわけで、尊重されて然るべきものだと思います。

大きなレベル:文化レベルでの話

個人的な理解として、これを文化レベルで考えていくのがレヴィ・ストロースのような考え方なのかな、と思うわけです。それぞれの文化はどちらが優劣といったものではなく、それぞれが固有なもので、それぞれのストーリー(背景・歴史的な道のり)の中で存在しているのであって、他者からみて一方的に判断されるものではないのだろう、と。

ただ、これは文化レベルを超えて「普遍的な視点」という観点から、物申すということができるのだろうか?という疑問にもつながるように感じます。

例えば「基本的人権」といった観点でお互いの文化について物申すというのはどうなんだろうか、なんてことです。

これは社会、宗教、国といった単位も絡んで一筋縄では行かないように思います。だからこそ継続して考えて、話し合いをしながら進めていく課題だと思います(決して武力ではなくて、対話にしていかないといけないでしょうね)

小さなレベル:個人レベルでの話

それでは個人レベルではどうなんでしょうか。それぞれの個人に基準があって、生活をしている中で、個人は尊重されるべきでしょうが、そこに「普遍的な視点」から物申すというのはどこまでされるべきなんでしょうね。

とはいえ日本という国の中にいるわけなので、国としてのルール(法)は守らないといけない、ということにはなるんでしょうね。国民の3大義務とか薄れてきている「公民」の知識でもなんとか思い出すことができます。

でも、国としてのルール(「法」)というヤツも絶対的なものではないわけですから、気をつけないといけないわけです。

また、全てが「法」で規定されているわけでもないので、そういったところが実は個性同士の摩擦ポイントになっていて、ワイドショーの格好のネタになったりするわけです。

結局のところ、大も小も、人はコミュニケーションするしかない

コミュニケーションというのは結局、「話す」と「聴く」ということでしかないわけです。結局レベルが大小あったとしても、人が今後もより良く生きていくためには、この「話す」・「聴く」を地道にやっていくことしかないのでしょう。

もっともコミュニケーションをしたところで、それでも100%の理解をすることは無理でしょう。

しかしその事実に対して、つまり「話せばわかる」という言葉に対して、銃弾を返してしまえば関係性は生まれないわけです。

片方の世界観が相手に対してマウントをとる世界になってしまうでしょう。

そんな世界になってしまう前に、日常から、

話そう。聴こう。

きっと社会も、政治も、世界的な問題も、そんなことの延長線上にあるのだと思う。






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