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Penthouseの6月のライブに参戦する浄土真宗僧侶が、「蜘蛛ノ糸」の歌詞の一節を味わってみた

好きなバンドが最近人気らしいです。Penthouseというバンドです。

今回はPenthouseの蜘蛛ノ糸の一節を通じて浄土真宗の僧侶としてこの曲を味わってみたいと思います。

Penthouse(バンド)とは?

Penthouseは、東京大学の音楽サークルで出会った男女6名によって、2018年に結成された[2][3]。「日常をちょっとおしゃれに彩る音楽[4][5]」の探求をコンセプトに、「シティソウル」バンドとして活動を行う。なお、活動初期から標榜しているこの「シティソウル」という言葉については、バンドの音楽性を端的に表す言葉として「シティポップのキャッチーさとソウルのパワフルさを兼ね備える」という意味で考えた造語であり、元々は既存の「シティ・ソウル」というジャンルに属している意識はなかったという[2]
wikipedia 「Penthouse(バンド)」

「蜘蛛ノ糸」とは?


概要


「蜘蛛ノ糸」は1st Full Album『Balcony』に収録されています。
この曲はTBSドラマ『私がヒモを飼うなんて』の主題歌となっています。

TBSドラマストリーム『私がヒモを飼うなんて』の主題歌としてPenthouseが書き下ろした楽曲「蜘蛛ノ糸」。当楽曲のミュージックビデオの一部がドラマのタイトルバックとして採用されることが明らかになった。3月28日(火)より地上波放送がスタートする(3月21日(火・祝)より「Paravi」「U-NEXT」にて毎週火曜正午配信)ドラマ「私がヒモを飼うなんて」は、ランジェリー業界を舞台に“ヒモ”のように複雑に絡み合う恋模様を描く“ビターで大人なラブストーリー”。TBSとマンガボックスが共同制作している完全オリジナル漫画「私がヒモを飼うなんて」(通称「わたヒモ」)を実写化した作品だ。
ビクターエンタテインメントHP (https://www.jvcmusic.co.jp/-/News/A027039/17.html)


Penthouse - 蜘蛛ノ糸 MV

MVは『私がヒモを飼うなんて』の主人公の井桁弘恵さんがMVに出ています。私は音楽に詳しくないですが、ジャズ調な感じが好きです。

原作の芥川龍之介「蜘蛛の糸」とは?


ある日、お釈迦さまは極楽の蓮池のほとりを散歩していた。はるか下には地獄がああり、犍陀多(かんだた)という男が血の池でもがいているのが見える。

 犍陀多は生前、殺人や放火など、多くの凶悪な罪を犯した大泥棒であった。しかしそんな彼でも一度だけ良いことをしていた。道ばたの小さな蜘蛛の命を思いやり、踏み殺さずに助けてやったのだ。

 そのことを思い出したお釈迦さまは彼を地獄から救い出してやろうと考え、地獄に向かって蜘蛛の糸を垂らした。

血の池で溺れていた犍陀多が顔を上げると、一筋の銀色の糸がするすると垂れてきた。これで地獄から抜け出せると思った彼は、その蜘蛛の糸を掴んで一生懸命に上へ上へとのぼった。

 地獄と極楽との間にはとてつもない距離があるため、のぼることに疲れた犍陀多は糸の途中にぶらさがって休憩していた。しかし下を見ると、まっ暗な血の池から這い上がり蜘蛛の糸にしがみついた何百、何千という罪人が、行列になって近づいてくる。このままでは重みに耐えきれずに蜘蛛の糸が切れてしまうと考えた犍陀多は、「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸はおれのものだぞ。下りろ。下りろ」と大声で叫んだ。

 すると突然、蜘蛛の糸は犍陀多がいる部分でぷつりと切れてしまい、彼は罪人たちといっしょに暗闇へと、まっさかさまに落ちていった。
 この一部始終を上から見ていたお釈迦さまは、悲しそうな顔をして蓮池を立ち去った。 文=K(稲)
ダ・ヴィンチWEB【1分間名作あらすじ】芥川龍之介『蜘蛛の糸』――地獄から抜け出すチャンスをもらった男の運命は?


地獄で苦しんでいたカンダタが、極楽浄土へ行くために蜘蛛の糸を独り占めしようとしたがために、再び地獄へ落とされる
という内容で、「自分勝手なことをすると、その報いを受ける」というメッセージのある作品となっています。

「蜘蛛ノ糸」の歌詞で着目したいポイント


今回歌詞の中で着目したいところは「極楽浄土を探せど闇の中」という歌詞です。この歌詞から浄土真宗の教えを味わえるところがありましたのでお話したいと思います。

「極楽浄土を探せど闇の中」

蜘蛛の糸ですが、糸を手繰り寄せ、自ら上ることによって極楽浄土に行こうとしたカンダタでした。ですが、自分だけが助かろうと思って登ってくる他者を蹴落とそうとしたところ、蜘蛛の糸が切れました。そうしたエゴイズムの物語として描かれています。でももし自分がカンダタの立場であったら、どうでしょうか。蹴落とすぞと怒鳴る事はないとしても「自分が極楽浄土に行けなかったらどうしよう」と自分の心配ばかり思う事は間違いなしです。カンダタの行為は、時と条件がそろえば人間も誰しも問題を起こす可能性があると思います。人間とはそうした脆弱な存在であると考えられます。

主語が「自分」の危険さ

「極楽浄土を探せど」と歌われていますが、極楽浄土を「探す」という行為は、ベクトルが私から仏様の極楽浄土に向かっています。果たして不確かな自分自身を頼りに探し求めた先に、極楽浄土はあるのでしょうか。探そうとすればするほど闇の中に迷うのではないでしょうか。

また、この闇というのは自分の価値判断を通じて見えている世界で、煩悩の闇のことではないでしょうか。結局カンダタは「蜘蛛の糸が切れそうだ、どうして他の人々も登ってくるのだ」という私自身の不安や欲望、いかりを抱き、その姿を仏様は見抜かれていたのだと思います。

摂取心光常照護 已能雖破無明闇

浄土真宗で最もよく拝読されているお経に「正信偈」があります。

原文
- 摂取心光常照護(せっしゅしんこうじょうしょうご)
- 已能雖破無明闇(いのうすいはむみょうあん)

書き下し
- 摂取(せっしゅ)の心光(しんこう)、常に照護(しょうご)したまふ
- すでによく無明(むみょう)の闇を破すといえども

意味
- どのような者でもかならず摂めとる阿弥陀如来の大悲のおこころは、迷いの衆生の闇を照らす光であり、常にこの身を護り続けて下さっています。
- 仏様のおひかりは私の煩悩の煩悩の闇を破られているといえども。
顕浄土真実教行証文類 行巻 正信偈

浄土真宗のご本尊でいらっしゃる阿弥陀如来様は「垂らした蜘蛛の糸を上ってこい」とおっしゃる仏様ではありません。この迷いの闇の中にいる私をそのまま抱え取って下さり、極楽浄土にわたしてくださる仏様です。

阿弥陀如来様のお慈悲のこころに遇うということは、私自身が自ら煩悩を断ちきって極楽浄土に行く事ではなく、慈悲のひかりに包まれている私たちには、煩悩そのものが問題とならなくなるということです。

今日は天気が曇りですが、雲がどれだけ立ち込めていようと、闇につつまれることはありません。太陽の光が届いているから、雲があろうとも真っ暗にならず日常を過ごすことが出来ます。それと同じように、煩悩を抱えたわたしであっても、その煩悩を超えて仏様からの光が届いているのです。

煩悩の闇でこの私は暗くとも、仏様のお慈悲のおこころは届いてくださっていました。
自らの煩悩の闇の上に届いている仏様のひかりを慶ばせて頂きましょう。

お読み頂き有難うございました。


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