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ぐん税ニュースレター -お客様訪問- バックナンバー 2022年4月号

お客様との対談 ~株式会社宮川新聞舗~

この記事は2022年4月に発行されたニュースレターvol.22から「お客様訪問」の記事を再編集したものです。最新情報ではなく、掲載当時の内容に基づいておりますので予めご承知おきください。

小林:こんにちは。 ご無沙汰しております。 新聞業界は長期的に市場が縮小傾向にあり、大変な状況の中、今年は黒字ですね。 何が良かったのですか?
宮川社長:去年は営業赤字でしたが、今年は経費削減努力の効果で営業黒字となりそうです。新聞社からの補助金等が雑収入に入っていますので経常利益も黒字ですが、来年はこれらの補助金はないので、共同配送などのさらなる経費削減を検討しなければなりません。新聞の売上が減っているので、売上の減少を上回るペースで経費削減をしていく必要があると考えています。
2月に足門の営業店を閉鎖して、その代わり高崎駅西口エリアの毎日新聞を取り扱うようになったのですが、営業店を廃止したことで家賃や人件費の経費削減の効果が来期は出てくると思います。
小林:新聞業界のビジネスモデルはここ数年で完全に壊れてしまいましたので、新たなビジネスモデルに移行していかないとなりませんね。 毎年2-5%ぐらい新聞の発行部数は減っていますから。複利で減っていくので10年経ったら新聞の発行部数は現在の半分になっていると思います。

紙媒体から電子媒体への移行、新聞TV中心のマスコミからYOUTUBEなどの動画配信サービスへメディアが移り変わっていきます。 新聞は団塊の世代が最大の購読者なので、団塊の世代の高齢化及び減少と比例して発行部数は減っていきます。僕も紙の新聞は読みません。もっぱらネットのみです。 たまに日経電子版の記事を読むくらいです。
宮川社長:うちの女房は新聞をすべて読んでいますが、私は時間がなくて読めないんです。ニュースはともかく新聞の社説とか論説とかは新聞社の思想が出るところですが、テレビのワイドショーのようにどの新聞も同じようなことを言っていて面白くない。産経新聞が興味深いですね。独自の視点で書かれていて。また、日経電子版ビューワーで地域経済面も面白いです。
一方で、デジタル化だけでなく、新聞の記事に魅力がなくなっていることが読者が離れていった理由の一つですね。上毛ARや日経ARのような動画の方が現場の様子をリアルに伝えられますからね。

宮川社長夫妻と上毛新聞のミテル君

小林:その通りですね。ところで、御社の沿革を簡単に教えてもらえませんか?
宮川社長:社史は作ってないのでよくわからないのですが、私の祖父、宮川善三が昭和10年頃に上毛新聞の販売店の権利をもらって配達店を始めたのが最初です。 お店ができたのが昭和19年頃で、あら町のシネマテークたかさきのあたりにお店がありました。 高崎市の上毛新聞の販売の権利を持っていたので、高崎駅の近くの旧市街地を自分たちで配達し、遠くの方は委託していました。当時は新聞をとっている人は少なくて、私の父は4人兄弟の3番目なのですが、兄弟は新聞販売店の手伝いをやりながら、それぞれ他の仕事も持っていました。父親は戦争から帰還してから国鉄の職員になりましたが、結婚を機に祖父の仕事を引き継ぎました。 昭和22~23年頃だと思います。昭和40年に日経新聞も扱うようになり、上毛新聞の他に日経新聞も配達するようになりました。
昭和51年に販売エリアの調整をして高崎駅の東口側の権利を放すことになりました。遠いところは効率が悪いということもあって。それで日経新聞と上毛新聞の部数が6割ぐらいになってしまいました。
小林:昭和52年に法人成りをして株式会社宮川新聞舗となって、社長の御父上の昭氏が社長となっていますね。
宮川社長:そうですね。そして昭和59年の元旦に、そのころ鍛冶町にあったお店が火事になって全部燃えちゃいました。両親はお店の二階に住んでいたのですが、危機一髪で助かりました。近所の家にも迷惑をかけてしまったので補償金を支払いました。保険なども使ったのですが、全部はカバーできずに、借金が残りました。 また営業の資料も何もかもが燃えちゃったので購読契約も取り直すことになり、大変でした。結局、本町に3年ぐらい仮住まいをして、日経新聞がここにお店を作ってくれたので、こちらに引っ越しました。弊社は日経新聞の専売店ですので、専売店の店舗は日経新聞社が提供するのが一般的でした。両親はここの二階に住んで、両親と私たち夫婦と従弟とで営業することになりました。
小林:その後、足門の店舗を作るわけですか?
宮川社長:こちらへ引っ越した直ぐ後に、上毛新聞社から店舗を足門に出したいと提案され、私が女房と足門店に行くことになりました。上毛新聞社にもバックアップしてもらい、足門地域の購読者を増やしていきました。上大類に自宅があるので、毎朝1時に足門のお店に行って自宅に帰るのが夜の10時という生活でしたよ。
小林:毎朝1時から新聞が来るのですか?そこから仕分して、折込いれて、配達すれば、午前中で仕事は終わりなんじゃないですか?
宮川社長:朝刊を配達して、朝ご飯を食べて一服したら営業です。1日営業して夕方には社員と夕ご飯を食べて帰ると夜の10時になってしまいます(笑)
そのころの営業は洗剤を1個持っていくと3ヵ月契約という慣習で3か月ごとに洗剤を持っていくというのが通常でしたが、1年契約の契約書を結ぶというスタイルをしていました。 契約が切れる前にさらに1年延長するといったスタイルで、契約をどんどん取っていき、部数を伸ばしていきました。
急に購読者が増えたんで配達する人がたりなくなりました。そしたら、競争相手のバイトの人たちが4人ぐらいまとまって入社してきてくれたこともありました。 購読者が減って仕事が少なくなると歩合給が減ってしまうので、弊社に移ってきてくれたのです。
7年間足門店で頑張って、もういいだろうと、こっちに帰ってきたら新聞が余っていて、2年たって購読契約を増やして余ってた新聞を片付けました。
そのころ資金繰りを見るようになったのですが、自己資本が全然なくて、運転資金が足りない。資金繰りには非常に苦労しました。

宮川社長

それから、売上規模が増えていきましたが、 石油ショック、1988年の消費税の導入などで売上がガクンと落ちたりしました。一方、折込収入がどんどん増えて、折込は2007年までは増えていきました。1997年の橋本内閣で消費税が5%になったときの落ち込みが酷かったと記憶しています。その時は企業が日経新聞をだいぶ整理したんです。上毛新聞はそれほど落ちなかったんですが。
また、新聞の発行部数は2008年のリーマンショックと2011年の東北大地震と原発事故で大幅に減少しました。
小林:決算書を見ると、2006年が売上のピークで約5.5億円でしたね。
宮川社長:そのころは新聞の売上が3.5億円、折込収入が2億円ぐらいだったですかね。その後は新聞は少しずつ減少していきました。新聞の減少を折込収入で補ったこともあったのですが、部数の減少ともに折込収入も減っていったというのが最近の10年です。
小林:まさしく失われた20年ですね。
宮川社長:そして、昨年借入金をすべて返済し、コロナ融資だけになりました。
小林:まさにビジネスモデルの再構築、再出発ですね。
宮川社長:今は、誰にこの店を引き継がせるかというのが課題です。子供は3人おりますが、長男も三男も上場会社に勤めていい給料を貰っているので、家業をやりたいとは言わないでしょう。次男は引き継ぐように準備をしていたのですが、自分のやりたいことがあるとデザインの道に行きました。実は他の新聞販売店の他の子どもたちもみんな一緒です。新聞業界の先行きが不透明である状況で、お金と人の苦労をあえて子供にさせたくないという親もたくさんいると思います。それで他の販売店も後継者探しに苦労していると思います。
小林:それは日本人全体に言えることかもしれません。僕から見ても最近の若い男の子はハングリー精神がないなあ、チャレンジしないなと思いますよ。それは失われた20年、もう1992年のバブル崩壊から30年になるので、失われた30年ですね、日本人のメンタリティがリスクを取らなくなったからじゃないかと思います。
その分、僕みたいなオジサンが頑張ってリスクを取って、借金をして投資をしているのかもしれません(笑)。 僕はもう58歳なので、周りの同級生などは守りに入っているのが多いのですが。
宮川社長:私ももう少し頑張って、次世代の人にバトンタッチできるように会社を整備していきたいと思います。
小林:もっともっといい会社にしていってください。今日はどうもありがとうございました。

商号:株式会社宮川新聞舗
住所:高崎市下横町13番地6
業種:新聞小売業
設立:昭和52年2月
売上高:4億円
社員数:50名
現社長の父 宮川昭氏が設立。現在の政治社長が平成12年に社長に就任。県内に1社しかない上毛新聞の専売店となっている。全国紙は日経新聞、毎日新聞、産経新聞、東京新聞を取り扱う。

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