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アデリン ~小説『ユースレス』#5~

 アデリン・レイズウィッシュは夜明け前に目を覚ました。

 足音を立てないようにそっとベッドから床に下りる。いつもの習慣で、まず隣の部屋をのぞいて愛娘ジェイが安らかに眠っているのを確認してから、身づくろいをし、一階へ下りた。

 ――教義通り、日の出と共に労働を始め、日の入りと共に休息する。そんな生活を始めてもう二十年近い。

 アデリンは今の生活に満足していた。現代文明の恩恵の大半を放棄した暮らしは不便なことも多いが、規則正しい生活習慣、常にこぎれいに整頓された家、秩序を重んじ礼節正しい隣人、などは何物にも代えがたいものだった。

 コミュニティの外での暮らしがどんなものなのか、アデリンは想像したいとも思わなかった。

 薔薇教に入信する前のこと――混乱した貧しい家庭で、いつも飢え、汚らしい恰好をして、暴力的な両親に怯えながら生きていた少女の頃の記憶――など、思い出したくもない。

 アデリンは、娘を自分と同じような目に遭わせずに済んでいることを喜んでいた。

 娘のジェイに適切な保護を与え、信仰を与え、教育を与えて、正しく育て導いていることを誇りに感じていた。

◇ ◆ ◇

 秋の深まりと共に、風に冷たさが交じり始めている。

 起床したらまず畑の見回りに行くのがアデリンの日課だった。彼女は町の南端に広がる共有畑の監視役でもあった――万が一、町外の人間が畑を侵しに来たら、銃を突きつけて追い払うのが務めだ。だから彼女の家は他の女たちの家から少し離れた場所にぽつりと立っているし、監視役の報酬代わりに、他の町民より広い敷地を与えられている。

 家を出たアデリンは敷地を横切って共有畑の方角へ向かった。夜が明けたばかりの世界は、まだ半ばまどろんでいるかのようだ。

 力のない日光。やわらかい土を踏みしめる自分の足音だけが聞こえる静けさ。

 視界の端から端まで何物にも遮られずに横切る地平線を眺めながら、ひんやりした早朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

 アデリンの敏感な感覚は、その空気の中に、地上走行車グラウンダーの排気ガスがごくわずかに紛れ込んでいるのを嗅ぎ取った。

 何者かがこの近くまで車を乗り入れたのか。警戒心が目を覚まし、アデリンは周囲の物音に耳を澄ましながら、ほぼ無意識のうちに銃の安全装置を外して構えた。足音を完全に消し、慎重に前進する。

 車は、まもなくみつかった。アデリンの敷地と町の共有畑との境界線に近い辺り、かつてダグルを飼うのに使っていた古い家畜小屋の陰に停まっていた。

「おはよう、アデリン」

 緊張感のないゆるい口調で声をかけてきたのは、先日共有畑の収穫を手伝ってくれた連邦保安官だった。家畜小屋の扉を背にして立っている。足元には、例の《猫》と呼ばれる四足獣が、長い尾を地面に無防備に伸ばして座っている。

 アデリンは警戒を解かず、銃を構えたまま近づいた。

 この保安官は、男にしては――粗野な劣等種族にしては、働き者で見どころがあると思っていたのに。信仰の不十分な若いたちにちょっかいをかけられても全然なびいていなかったので、良い印象さえ抱いていたのに。こんな時間帯に人の敷地へ入り込むとは、どういう了見だろう。

「ジェイが目を覚ます前に、あんたとちょっと話がしたくてさ」

「……無理よ。この町では、《邂逅日》以外に男女が二人きりで接触することは禁止されている。ミモザ教母が立ち会ってくれるのでなければ、あなたとは話せないわ」

「ミモザ姐さんを立ち会わせてもいいのかい? 本当に?」

 相手の意図が読めないことに、アデリンは焦りを覚え始めていた。彼女が初め疑ったような、いかがわしい意図での訪問ではなさそうだが――こんな朝早くに訪ねてくるのは明らかに普通ではない。それに、何よりも彼女の神経に障るのは、至近距離で突きつけられている銃口を相手がまったく気にかけていないらしいことだった。

(私が、撃てないとでも思っているのかしら?)

 不穏に揺れた銃口に、保安官は無造作に肩をすくめた。

「あんたの銃の引金は軽そうだから、前置きなしで言っちまうけど。……この町の男たちを殺したのはゴライアスじゃない。ゴライアスには殺す動機がない。男たちは巡回登記団が来たら、自分たちの住んでる土地は自分たちのものだと申告するつもりだった。そして登記が済んだら、その土地をゴライアスに売り渡すつもりだった。あんたらが『男の居住区』と呼んでる、町の西側部分全部さ。ゴライアスとの間で、売買予約契約にもサイン済みだった。

 巡回登記団の到着前に男たちが死んだせいで、契約は無意味になった。ゴライアスは男たちの死によって損失を受けたんだ」

 アデリンは深く息を吸い込んだ。

 動揺のあまり、銃を持つ手が震え出しそうだ。――しかし自分を制御し冷静さを保つ方法は知り尽くしていた。戦争中、狙撃手だった頃、セルフコントロールの訓練は十分受けてきたのだ。

「男たちが死んで利益を受けたのはあんたらだよ。この薔薇教のコミュニティを維持したいと考えている熱心な信者たちだ。

 たぶん、手を下したのは、あんたなんだろう? この町には、銃の扱いが上手うまい人間が他にいない。……夜中に顔見知りのあんたが訪ねて来ても、男たちは警戒しなかった。銃を持っていても不思議に思わなかった。あんたはいつも町を守るために武装してる人だから。夜中にあんたが来てくれて、喜んだ男もいたかもしれねーな。それで真正面から撃たれた。完全に油断してるところを。

 四十二人全員が眉間を撃ち抜かれてるという状況は、相当信頼の篤い人間による内部犯行を示唆してるよ。知らない相手に襲われたんなら、いくらなんでも、一人か二人は逃げようとしたり争ったりしたはずだろ」

「――証拠がないわ」

 アデリンはささやくような声で反論した。自分の声が震えていないことを知り、再び力が戻ってくるのを感じた。

 保安官はあっさりうなずいた。

「そぉだね。だけど、そんなもの要らないのさ。どっちみち、あんたの行為は犯罪じゃない。この星にはまだ法律がないから、殺人罪は成立しない。俺はあんたの犯罪を立証しようとしてるわけじゃねーんだ」

「それじゃあ、なぜ、こんなことを……?」

「俺があんたに言いたかったのは、法律があろうとなかろうと、人の命を奪うことは悪だってことさ。たとえどんな理由をつけたとしても、人間は他の人間を殺しちゃいけないんだ。

 宗教は必ずしも殺人を抑制しない。あんたもきっと、自分を正当化するための理屈を持ってるんだろう。だけど、たとえあんたの宗教がそれを許しても。連邦法があんたを処罰しなくても。あんたのやっちまったことは罪だし、あんたはそのために裁かれる……あんた自身の心によって。

 あんたはもう一生、心から笑えない。一生、恐怖から逃れられない。あんたが殺した連中の顔を、一生忘れられない。そして、あんたの犯した罪を知っている人間が存在するという事実が、あんたをいっそう苛む。あんたは不安を感じずにいられないだろう……俺があんたを告発するための方法を思いつくんじゃないかと。俺がジェイにあんたの罪を話すんじゃないかと。それに……」

 保安官の言葉を聞きながら、アデリンが感じていたのは視野が真紅に染まるほどの怒りだった。

 ――男という種族は、みんなそうだ。

 こちらが女だというだけで、自分の方が優位に立っていると思いたがる。こちらを見下したがる。

 単純で視野の狭い劣等種族のくせに!!

 甘く見るな! 私は不安など感じない。

 戦争ですでに数えきれないほどの人間を殺してきているのだ。

 今さらそれが四十人ほど増えたところで変わらない。

 私が最近心から笑ったことがないのは、断じて、殺人の記憶のせいなどではない。

 それに――世間には確かに「正しい殺人」というものが存在する。大義のための殺人が。
 自分の生存圏を脅かすものを排除するのは、生物の当然の権利なのだ。

 あの愚かな男たちは、金のために、私たちの楽園を切り売りしようとした。それを阻止するのは正当な権利の行使であり、神を信じる者たちの利益になる行為だった。だから、神もきっとお許しになるはずだ。

 相手がジェイの名前を口にした瞬間、アデリンの心の中のスイッチがオンになった。

 彼女は至近距離から保安官の胸を狙って発砲した。

 旧式とはいえゴライアスSB3985型パルスガン《ペリドット》はさすがに高性能で、銃声もほとんど響かなかった。保安官が後ろへ吹き飛んで家畜小屋にぶつかった音の方が大きいぐらいだった。これなら母屋にいるジェイの眠りを妨げることもないだろう。

 保安官は、倒れなかった。

 それどころか、何事もなかったかのような平静な目のまま、彼女をじっと見返していた。

 きちんと閉じていなかった家畜小屋の扉が、衝撃でゆっくり開き始める。その、ぎぃぃぃぃっ、という軋み音だけが聞こえる深い沈黙の中、アデリンは、相手が一滴も出血していないことに気づいてぞっとした。シャツの胸元は黒焦げになっているから、着弾したことは間違いないのだが。

 保安官は先ほどまでと少しも変わらない静かな声で言った。

「公務執行妨害罪の現行犯であんたを逮捕する。銃を捨ててくれ」

 アデリンは息を呑んだ。

 いったん始めてしまったからには、もう後へ退くことはできない。確実にしとめるため、狙いを顔へ移して連射した。内心の恐慌パニックは照準に影響を及ぼさなかった。全弾が相手の顔面に命中した。皮膚が裂け、肉片が飛び散り、顔の輪郭が変形した。それでも相手は倒れなかった。

(ば……化物!!)

 彼女は戦争中、反乱軍の強化兵エラディケータと戦ったことがある。やつらも人間離れしていた。素手で鋼板をぶち破り、戦車を投げ飛ばした。けれども少なくとも、強化兵たちは、撃てば血を流した。銃で殺すことができた。

 目の前のこの男は違う。銃では、殺せない。

 恐怖が、戦場で培った生存本能をよみがえらせた。アデリンは手元を見下ろしさえせずに熟練の早業でカートリッジを交換し、コントローラを操作した。インパクトレベルを最大に設定。これだけ距離が近いのだから精射は必要ない――今度の目的は、相手を撃ち殺すことではなく、衝撃でよろめかせ後退させることだ。

 アデリンはさらに激しく連射した。相手の顔面に射線を集中させていると、やがて保安官がよろめき、半開きの扉から家畜小屋の中へと後じさりした。

 アデリンは大急ぎで外から扉を閉じた。

 長年使っていなかった家畜小屋だが、ロック機構がまだ生きていて助かった。ボタンひとつで扉を即座に施錠することができた。

 家畜小屋の扉とすべての窓には頑丈なテンシル鋼の格子が嵌まっている。家畜を夜盗に奪われないようにするための標準的な用心だ。それらの格子が、化物みたいな保安官を閉じ込めるのに少しでも役立ってくれることを祈りながら、アデリンは小屋の隣に停めてある地上走行車へ駆け寄り、動力機構を収めている後部スペースの蓋を蹴り開けた。恐怖と興奮に激しく震える手で銃の台尻を叩きつけて中の機械を破壊し、液体燃料タンクを取り外した。

 液体燃料を家畜小屋の四方の壁に振りかけた。

 そして、これぐらい離れれば大丈夫だろうという距離まで後退し、小屋へ向けて発砲した。

 一瞬で、家畜小屋が巨大な火の玉に変じた。激しい熱波が吹きつけ、アデリンの顔を打った。

◇ ◆ ◇

 アデリンはその場に呆然と立ち、猛火に包まれた家畜小屋をみつめていた。

 大丈夫だ……これでもう大丈夫なはずだ……これほど激しい炎の中で、人間が生き延びられるはずがない。いくら怪物じみた強さを持っていても……。

 炎の中から大きな音が聞こえたので、アデリンは体を震わせた。

 それは出入口の扉が倒れた音だった。框が焼けたため扉を支える物がなくなったのだ。

 まるで生命を持つかのように激しくうごめき荒れ狂う紅蓮の炎を彼女はじっとみつめていた。小屋が完全に焼け落ちるまで見届けようと決めていた。周囲に何もないとはいえ、燃えている建物をそのまま放置して立ち去るのは危険すぎる。

 ふと、強い視線を感じた。

 保安官の連れていた《猫》が、炎の熱の届かない安全な距離に座り、アデリンをみつめていた。

 まるで意思あるもののような――人間に見られているような威圧感だ。気味が悪かったが、アデリンは視線をそらし、《猫》の存在を意識から追い払った。たとえ主人を害されたことを理解できているのだとしても、あんなちっぽけな獣に、何ができるわけでもないだろう。

 長く感じられる数十秒が過ぎた。 

 炎の中で、何かが動いたような気がした。

 アデリンは手の甲で目をこすった。明るい炎をずっと眺めていたため、目がおかしくなったのではないかと思ったのだ。

 ――錯覚ではなかった。赤い炎の中に、確かに何か黒い物があった。最初は点にしか見えなかったそれは見る見るうちに大きくなり、はっきりした形を取った。

 それは、人間の形に似ていた。

 業火の中でうごめく黒い骸骨だ。

 骸骨は、脚を動かした。こちらへ向かって踏み出した。のろのろとしてはいるが明らかに意思を備えた動きで、一歩、一歩と進んできた。

 アデリンは恐怖のあまり呼吸することさえ忘れ、息をつめて骸骨の接近をみつめていた。

 骸骨は完全に小屋を出た。小屋を出てからもそいつの歩みは止まらなかった。ゆっくりとアデリンに近づいてくる。その異形の顔はまっすぐアデリンに向けられている。

 口があるとおぼしき辺りから、人間の声が飛び出してきた。

「あんたが逮捕に抵抗したので加重妨害罪が成立した。連邦刑事手続法の規定により、俺は無警告であんたを射殺できる。……銃を捨てなよ、アデリン。俺は人を撃つの嫌いなんだ」

 聞き覚えのある、保安官の声だった。

 アデリンは地面にへたり込んだ。

 戦争で数々の地獄をくぐり抜けてきた彼女は、もはや多少のことでは動揺しないという自信があった。けれども今目の前で展開している光景は彼女の咀嚼できる範囲を完全に超えていた。


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