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『だれのものでもないチェレ』

オススメしない映画でテキストをアップするのもどうかと思いますが、受け取った衝撃を吐き出すために書いてみます。

オススメしないと書きましたが、駄作というわけではない。駄作なら、スルーしてしまえばいいだけのこと。そうでないから困ります。


この映画を観たのは、月一でやっている映画の会で。メンバーの一人が、いいという評判だといって持ち込んできた。1978年公開のハンガリーの作品だという情報も、観てみたいを後押しした。

90分ほどの映画を見終わった後は、みなみな絶句。そして、堰を切ったように、

「なんなんだ、これは...!」
「ホント、最後の最後まで救いがない...」

と、溜まった感情を吐き出し始めました。
それも、陽気に。

ひとりで観たい映画もありますが、仲間と観たい映画もある。今回は、なかまと一緒でよかったと思いました。ひとりで受け止めるのは、ちょっと大変な作品。


救いのなさを際立たせるのは、みなしごチェレの溌剌さ。

オープニングのハンガリーの大地の映像のあと、牛と一緒に素っ裸の幼女が草原に登場しますが、それがチェレ。“チェレ”は本名ではなく、通り名、あだ名のようです。

幼女とはいえ素っ裸で登場したのには驚きましたが、もっと驚くのは、チェレが延々裸のままだということ。孤児を引き取ると国から給付金が出るとかで、チェレはどこかの農園の夫婦に引き取られる。そこで子どもたちと一緒に過ごすのだけれど、チェレだけは素っ裸のまま。う~む...。

中盤からは服を着させてもらえますが...。

チェレは大人から虐待を受け暮らしながらも、その動作は子どもらしい溌剌さを失わない。子どもとはそうしたものだという認識が余計に観る者の気持ちを重くします。

ただ、チェレの表情は、映画が進行するにつれて暗くなっていく割合が高くなる。


『だれのものでもないチェレ』は、鑑賞前の見立てでは、日本の『おしん』かな? と予想していました。タイトルからも可哀想な子どもが主人公であろうということは想像できますし、公開時のハンガリーで100万人、TV化されて400万人というデータから、そのように想像した。ちなみにハンガリーの人口は1000万ほどだそうです。

でも、これは『おしん』どころの騒ぎではない。

このような作品が広く支持を受けたという事実には、正直、釈然としないものがあります。作品が制作されること自体は、そのような実態があったのでしょうから理解できるとしても。

「救い」がない作品を、一部の者が高く評価し強く支持するというのならわかりますが、広く大衆に支持されるというのは、納得がいかないわけです。

となると、考えられることはひとつ。「救い」の感覚が、ぼくたち日本人とハンガリーの人たちとでは違うということ。


物語の最後はクリスマスのシーンです。

クリスマスのご馳走に、飼っている豚が絞められる。大勢の人に押さえつけられて、喉を掻き切られる。チェレは豚の喉から吹き出す鮮血を器で受け止める役割をやらされる。いちばん、嫌な役回りです。

なのにチェレは、ご馳走のご相伴に預かれない。みなが楽しく食事をしている傍らで、眺めているだけ。我慢ができなくなって、おずおずと「お父さん、私も...」と声を掛けるのですが、養父の返答は、「お前の父親は無名の兵士だった」というもの。そのあとで、兵士を讃える歌を合唱し出すのですから、まさに噴飯物です。

チェレはとうとう、テーブルの上のパンかなにかをひったくって逃げる。大騒ぎになって、母屋を閉め出され、寝床になっている馬小屋に逃げ込みます。そして、思い出だか空想だかの母を慕いながら、ひとりクリスマスを祝う。藁をロウソク代わりにして、火を灯す。火事になる。

火事は、建物をすべてを焼き尽くてしまいます。明白には描かれないけれども、チェレだけではなく、チェレを養っていた、というより酷使していた家族もろとも


「救い」だと解釈できるものがあるとすれば、「もろとも」くらいしかありません。けれど、だとしても、いえ、だとしたら、それこそ救いがない。「もろとも」に「救い」を見出すの心性は、破滅願望を抱えているということでしょうから。


『だれのものでもないチェレ』がハンガリーの国民に広く支持を受けた事実の背後にあったのが破滅願望だったとして、では、それはどこから来たのかと考えざるをえません。

物語の中の時空は、1930年代。第一次大戦後です。ハンガリーは、歴史の知識によれば、第一次大戦後、ハプスブルクのオーストリア・ハンガリー二重帝国から独立して、単独で共和制になったはず。そして、第二次大戦後は、ソ連の指導で社会主義。

映画の中の第一次大戦後も、映画が鑑賞された第二次大戦後も、どちらにもハンガリーには破滅願望が巣くっていた....、あくまで推測ですが...。


映画の会で見終わったあとの感想のなかに「まだ日本でよかったね」というものがありました。同意せざるを得ない(というのも変な)のですが、破滅願望という側面から考えてみれば、必ずしも安心できないとも思います。

確かに、現在の日本は、映画の中のハンガリーよりずっと豊かです。子どもが素っ裸で放置されていようものなら、直ちに通報されて、行政なりが対処することになる。

物質的な豊かさ、制度の進歩という側面では比較にならない。でも、それらは、皮肉な見方をすれば、単なる「習慣」でしかない。


そういえば、先に読んだ『ゴールデンスランバー』には、そうしたセリフがありました。「人間の最大の武器は、信頼と習慣だ。」

破滅願望が蔓延しているということは、信頼が空洞化しているということです。信頼に裏打ちされない習慣によって、惰性的に制度が運用されている。

政治家や官僚が「犯罪でない」、あまつさえ「セクハラ罪は存在しない」と言い放つことが許されるような制度運営もまた、単なる「習慣」でしかないように感じられて仕方がないのですが...。

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