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自身を信じるのに遠慮はいらない

昨夜は「いきなり葉っぱ吸ってんのか?」てな記事を立ち上げてしまった愚慫です。

以前からず~っと予感はしていたのですが、とうとう来たか!という感じ。

それが宇宙文明? いやいや、短絡しないでください。

自分自身を信じるのに遠慮はいらない。

遠慮しているということは、リミッターが効いているということ。リミッターが外れたな、という感覚です。

宇宙文明があるかどうか? そんなのわかりません。わからないけど、あるに違いない! と飛びつくのは危険だと思います。紹介しておきながら矛盾したことを言いますが。

感覚の問題なんです。

宇宙文明へのハシゴになったのは、幾郎さんです。

まだリアルでお会いしたこともないのですが、このご時世ということもあってZoomや何かでつながることが多くなりました。直接ではなくても、ネットを介してほぼ肉声でつながると、繋がり感はずっと深くなります。

信頼に値しそう。いや、「値しそう」ではないですよ。それは値踏み。何かと比較して、その何かはおそらく言葉でできた何かなんだろうけど、そこでもう、リミッターがかかっている。

信頼したい自分がいる。それは代償行為としての信頼か? このタイプの信頼はわりと多い。満たされない人はどうしても自分から信頼を求めて、美しい誤解にはまるのね。恋はまさにこれ。裏切られると傷ついてしまう。

感じる信頼が純粋に内発的なものであるなら、裏切られてもいいと思う。もし裏切られたと思ったなら、それは自分が過剰な期待をしていただけ。あるいはその隙につけ込まれただけ。

自分自身が感じた信頼を内発的だと感じたら、遠慮はいりません。そこに遠慮があるとしたら、それは呪縛。呪い。鈍いから離脱しようなんて、ずっと私自身が言ってたことなのに。やっとリミッターが外れた。鈍いなあ 笑

てなわけで、私はまだいまのところ、直接宇宙文明を信じているわけではありません。そこにたまたまかかったハシゴは信頼ができる。信頼ができるなら登ってみようじゃないか! それくらいの好奇心はありますって。

そうやって登り始めると、周囲にはいろいろハシゴがかかっていることも視野に入ってきます。その中には「代償としての過剰な期待」も混じってはいるだろうけれど、もう、そんなのは登らない理由にはならない。


もうひとつ、使えるものはなんでも使え! というリミッターの外れ方もあります。宇宙文明があろうがなかろうが、地球文明がヤバいことになっているのは間違いがない。これは樵をやってたことも大きいのでしょう、ヤバいことになっているのになぜか切迫した思いが私にはある。

私は日本人なんです。日本教徒です。山川草木悉皆成仏。だから、木にだって命はあると感じてきた。それをバッタバッタ切り倒してお金を稼いで、命をつないできた。今だって、直接手を下していはいないけど、同じことをやっている。

自然の円環はよくできたもので、それが過剰な欲望でなければエコです。自ずと回っていく。

Quoraのこの記事は、熊の「わがまま」について記されいます。季節になって鮭が川を遡上してくる。熊は待ってましたとばかり食べ漁る。美味しいところしか食べない、わがままな熊w でも、そのおかげで、自分では直接鮭を捕らえられない命にもおこぼれが回る。トリクルダウンです。人間のトリクルダウンとは大違い。

熊は鮭を食べるのにも、食べ残すにも遠慮なんてしません。あるがまま。

私も見習うことにした、というだけのこと。あるがままに。

感じるままに。