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白妙のマッシュルームに雪は降りつつ

 例えば、私によく気の知れた飼い犬がいたとして、彼と私は死んだ主人(それは祖父だったり、もしかしたら私の友人かもしれない)のことを二人で同時に考えている。すると、どうやら私の考えていることと、そのつぶらな瞳をした老齢の犬が考えていることが、視線の激しい不可視光線の間で、プラズマのようにわっと激しい瞬きを見せ、その瞬間、私と飼い犬の中で、亡き主人の顔が美しく浮かび上がる。その時、私の本体と言うべき、それがこの四肢を取り除いた躯体の部分のことを指すのか、または個人的な記憶を司っている脳のある部分を指すのか、それは分からないが、本体と言うべき部位が、彼と溶け合っていくのを感じる。犬の方はといえば、曖昧な記憶の中で私と主人とを重ね合わせ、美味しかったトリュフの匂いのするドッグフードを思い出しながら、その一方で、落ち窪んだ目の奥ではしっかりと私を見つめ、おすわりの姿勢で過去に思いを馳せている。

  松茸は、ものを考えると思う?

 祖母は昔、もう朧げになってしまった頭でそんなことを聞いた。彼女の生まれ持っての疑問だったのか、長い道のりを歩んできた故の真理だったのか、幼い私には判然としなかった。
松茸はものを考えるか? あれだけ高級なものは、知能くらい持ち合わせていたって良さそうなものだ。きのこの本体は、細胞質の基質に表面から伸びていく菌糸と呼ばれる部分のことを指すそうだ。生物学的には。私の身体を、カビのように覆っていく、一般性のような何かは、もしかしたら私本体なのかも知れない。そこで私を見つめている毛玉の本体は、もしかすると鼻の先についている汚いゴミから伸びた糸である可能性だってある。

 松茸はものを考えるだろうし、それから非常に頑固で、論理的だろう。理が通っているということは、最強で、それ以上になんらかの逃げ場も無くなってしまう。だから、松茸を目の前にした時、私たちはただ黙って目を瞑って、高額のお金を払い、少しの満足に口笛でも吹きながら家に持って帰る他ない。

 当然、シメジやナメコや、エリンギだってそれくらいの知性は持ち合わせているだろう。ああ、兄弟、お前は白菜と一緒なのか。ああ、お前は豆腐と一緒か。そうか、幸せにな。もしかすると彼らは、胃の中か、あるいは下水道のどこかで再会できるかも知れない。だが、エノキ、お前はダメだ。

 縁結びの木の下に群生して、祈る男女を足元からニヤニヤして見つめているのに、そのくせ、自分に光が当たると、「あたくし、敏感なの」と頬を赤らめて遠ざかっていく。周りの奴らは、「そうだ、そうだ」と同調圧力に最も簡単に屈する。でも、お前らは、一人じゃ何もできまい。同性同士で繁殖できる優れた能力を有していながら、「でもあたくしたち、脇役で十分ですの」と色白の艶やかな肌で、食指を躱していく。
 例えば、私とエノキが長い間見つめ合ったとしたって、私と彼女の間には合一な思いなど、つゆも生まれやしないだろうし、生まれたところでそんな徒労にはなんの価値もない。彼女の方も、まっすぐ目を見つめていることに幾分か疲れてしまったようで、紅花染の手拭いで汗を拭ってから、一口、盃をこくりと傾けて、それから遠くの雲を、意味ありげに見つめるのだ。別に、彼女が空を見上げることに、なんの作為も論理もない。ただ、彼女はそうすることで自らの美しい首筋をより美しく見せることができると経験的に知っているからに過ぎない。
 鍋の中から伏目がちな視線を受け、私の方からも彼女を一瞥する。まるで、数年前に別れた恋人とうっかり街ですれ違ってしまったように、当惑するのはこちらだけで、彼女の方は何もなかったかのようにもう一度私を誘惑してくる。
 エノキの知性は恐るべきもので、彼女らは悪魔と契約でも結んでいるのだ。

 犬は私の方をもう一度見つめ、それからまるで自分の家かのように窓際に歩いて行き、彼もまた、意味ありげに空を見上げた。遠くでは、何重にも傘の折り重なったクリスマスツリーの電飾が煌々と光っていて、副都心の明かりも、心なしか赤と緑に染め上げられていた。美しいクリスマスツリーの日陰には、所狭しと群生するきのこのように、電飾にエネルギーを供給するコードが生えていて、私がスマホのライトでそれを照らそうものなら、彼女たちは挙って、右手の甲で顔を隠し、口々に叫ぶだろう。
「あたくしたち、光は苦手だって言ってるでしょう? 」
「そうよ、そうよう! 」
「クリスマスが台無しじゃない」
「あたし、このパイ嫌いなのよね」

 冷蔵庫を開けて松茸を見つめ、私は彼の目覚めを待つ。彼となら、もう少しまともな話ができるかも知れない。

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