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短編小説:レファレンス・チェック


 「何で田代さんなんかに!私ですらそんなことしたことが無いのに・・・不愉快です。私、帰ります」

いきなり激怒した冴木は、居酒屋の席を蹴ってつかつかと出口を出て行った。私はあっけにとられて彼女の後姿を見送った。

 

そもそもの始まりは私の職場にかかってきた一本の電話だった。

「田代さんですか?」

電話口の聞き覚えのない声に、私は一瞬戸惑った。

「私、マッシモ商事の並河と申します。実は、冴木順子さんの事で少々お伺いしたいことがございまして」

冴木順子は、私の学生時代の後輩だ。学部も同じ商学部で、オーケストラサークルの二年後輩にあたる人だ。彼女がどうしたんだろう。卒業から十五年。連絡も途絶えてしまい、今はどこでどうしているのか見当もつかない。

「今、弊社で冴木さんの採用を行っているのですが、冴木さんがどのような方か、知っている限りで結構ですので教えていただけますでしょうか?」

知っている限りと言われても、学生時代の遠い昔の事だ。私は電話をかけてきた並河さんにそのことを伝え、冴木さんはリーダーシップのある人だと答えた。

「リーダーシップですか、なるほど。長所の他に短所と言いますか、そういったところはご記憶にあられますでしょうか?」

いきなり言われても昔のことなど早々に出てはこない。私は頭を抱えた。仕事中に何でこんな身辺調査の様な電話に対応しているんだろう。

「短所と申し上げていいのか分からないですが、ほんの少し自分に自信があるようなところがあるかと存じます」

「自信?といいますと?」

「はあ。自分がやってみた事の無い事でも、自分はできるはずだという自信があるというか・・・でも積極的で能力は高い人なので、何らかの形で結果は出す方だと思います」

「そうですか。お忙しい中ありがとうございました。参考にさせていただきます」

そう言って並河さんは電話を切った。

翌日の昼休憩の時、私は職場の先輩に昨日の電話の事を話してみた。

「マッシモ商事?あの大手の外資系の商社でしょう?多分それ、レファレンス・チェックっていうものだと思うよ」

レファレンスという耳慣れない言葉に、私はもう少し詳しく教えて欲しいと聞いてみた。

「レファレンス・チェックって、普通は在籍確認っていって、転職するときに企業が候補者の以前勤めていた会社に電話をかけて、本当にその職場に在籍していたか確認する事なのよ。でも、あなたが受けたような身辺調査っぽいのはあまり聞いたことが無いわね」

それを聞いていた他の先輩が続けた。

「あ、でも正社員で入るときは、外資系の会社だとその人の人柄を聞くこともあるよ。私も一回、昔一緒に仕事をした人について電話がかかってきて聞かれたことがある」

「そのとき何て答えました?私、ちょっと変なことを言ってしまったかもしれなくて。どんな人か聞かれた後、短所を聞かれたんです」

「短所か・・・当たり障りのない事ならいいけどね。その人がもう採用が決定になっていればいいけど。これが採用決定になっていなかったら少し不利に働いてしまうかもしれないね」

私は恐れおののいた。後輩の人生を左右するようなことがあってはいけないんじゃないか。

私が転職して今の会社に入った時も、学生時代の先輩から連絡があり、私の人となりを聞かれたという事を聞いた。「悪いようにはいっていないから安心して」と言われたが、その時は事情がよく分かっていなかった。まさか自分が企業から連絡を受ける身になるとはとても思えなかったからだ。

しばらく不安な日々が続いた。

二か月後、私は通勤電車の中で後ろから声をかけられた。

「田代先輩!」

その声の主は、冴木順子だった。

あまりの偶然に、私たちは互いに顔を見合わせて喜んだ。

「久しぶり!」

「偶然ですね!私、実はこの間転職したんです」

「転職!以前はたしかメーカーさんだったっけ?違ったかな?」

「そうです。メーカーから今度は商社に移りまして。マッシモ商事ってご存じですか?」

ご存じも何も、そこの人間から電話を貰っていた。ということは、順子は無事に転職してマッシモ商事に採用されたようだ。私は安堵した。

「すごい、その会社聞いたことがあるよ。確か大手の会社だよね」

「はい。これで今まで希望したことができるようになります」

「そうなんだ、転職成功おめでとう」

「あ、私次の駅で降りなきゃ。また今度食事でも行きません?」

食事なら願ってもいない。私たちはその場でLINEを交換し、その日はそこで分かれた。

夕方、順子からLINEが入っていた。大手町のオフィスからだったらいつでも出られるので、飲みにでも食事でもいつでも声をかけて欲しいとの事だった。品川の私の会社からそう遠くはない。彼女の勤め先近くの有楽町を提案してみた。LINEがすぐに帰ってきて、私たちはその週の金曜日に有楽町の居酒屋で待ち合わせることにした。

テーブルについて飲み物や食べ物を一通り注文した後、私はこの数日、考えに考えていたことを順子に伝えた。

「あの、びっくりしないでね。レファレンス・チェックって聞いたことがある?転職した時に、採用する側の会社の人が、採用する人が過去にいた企業に在籍確認をしたり、知り合いの人にその人の人となりを簡単に聞くことなんだけど。

多分あなたが今の会社に転職したころだと思うんだけど、私の所にマッシモ商事の人から連絡があったの。順子がどんな人か聞かれたんで、簡単に説明しておいたよ。悪い様には言ってないから」

それを聞いた順子は、眉根を寄せて、こちらをキッと睨んだ。

「田代さんの所にですか?なんだってまた田代さんなんかの所に・・・」

「私も分からないよ。どうやって私の今の職場を見つけたのかも分からないんだけど、とにかく連絡があってね。私も前に転職した時に、サークルの山口先輩の所に連絡が行ったそうで、レファレンスを取られたけど気にしないで、って言われたことがあるの」

「でも山口先輩はサークルの主将ですよ?田代先輩は主将でもなんでもないですよね?なんで田代先輩なんかに・・・ふつうはもっと上の人、というかちゃんとしたポジションにあった人がそういうことを対応するんじゃないんですか?」

「うん、私もそう思う。でもなぜかマッシモ商事が連絡してきたのは私だったのよ。もしかしたら他の人の連絡先が分からなかったのかもしれないね」

「でも田代さんの代の主将は渡辺さんですよね?本来だったら渡辺さんがやってくれてもいいはずなのに」

「そうだよね。順子の言うとおりだよ。渡辺君を差し置いてどうして私の所に連絡が来たのかはよく分からないんだ。でも企業さんの方には、差しさわりのない事しか言ってないから安心して」

順子は不機嫌そうに言った。

「どんなこと言ったんですか?」

「リーダーシップがある人、って答えておいたよ。ほら、あなたサークルで二年の時に指揮者をしたじゃない?大勢のオーケストラをまとめる経験をした人だから、リーダーシップがあるって表現をつかわせてもらったよ」

「でも田代さんみたいに普通の部員だった人は、そんなレファレンスを取るとかやりませんよね、普通?もっとちゃんとした人がやってくれてもいいのに。それに私ですらまだ後輩のレファレンスを取るなんてやったことないんですよ?」

「まあ、普通に暮らしてたらレファレンスを取ることなんてないからね。それだけ皆落ち着いて仕事してるってことじゃない?」

「田代さんがレファレンスをやってて、私がまだやってないなんて、納得がいきません!

田代さんレベルの人の所に私のレファレンスを取りに行くなんて・・・

何で田代さんなんかに!私ですらレファレンスをやった事が無いのに!不愉快です。私、帰ります」

そういうと順子は立ち上がり、乱暴に鞄を手に取ると、ハイヒールを鳴らしながら店の外へと出て行った。

あっけにとられた私は、順子の背中を見送った。

ふと、学生時代の事を思い出した。そういえば似たようなことがあったな、と。

順子は自分に自信があるのは良いのだが、他人が自分より進んでいたりいい結果を出していたりすると猛烈に嫉妬する。そこが彼女の困ったところだった。

私は大学で初めてオーケストラ部に入部し、小さい頃にほんの少しだけやっていたフルートを始めた。

一年生の時のオーケストラ部内のコンテストの時に物は試しと指揮者に手を上げ、それ以来なぜか指揮者をやる機会が数回あった。

三年生の時の関東地区の大会や、卒業演奏会の時は同学年全員で話し合い、結局私が指揮者をやることになった。

要因の一つには、私がいつか演奏してみたい曲があったからだ。他の人たちは最後の演奏会の時は自分の演奏に集中したい、ということで指揮者を希望する人は現れなかった。

私は、卒業演奏会にグリークの「ペール・ギュント組曲」の「朝の情景」、バッハの「ブランデンブルク協奏曲 第三番」、ドビュッシーの「牧神の午後」、そしてビゼーのオペラ「真珠採り」から「耳に残るは君の歌声」を推薦した。他の部員達とも話し合い、最終的には私が希望していた曲を演奏させてもらえることになった。

卒業公演でやることの一つとして、入部したての部員のケアがある。これまで楽器をやってきた子もいれば、初めて楽器に触る子もいる。

まずは楽器のパートごとに分かれて練習をし、指揮の担当は各パート練習を見ながら全体像をつかみ、演奏会の本番でどのように音楽を表現するか決めていく。

順子はトランペットのチームにいた。楽器を演奏するのは初めてとのことだった。

初めのうちは何事もなく練習が進んでいたはずなのだが、途中でチームリーダーが「ちょっと困った子がいる」と漏らし始めた。

「その子、練習の課題をやってこないのよ。毎回課題を与えて次の練習までに仕上げてくるように言っても、いつまでも指摘された課題点を直さないんだよね。にやにや笑ってるだけで、注意をしても自分の事を指摘されているのをまるで無視しているみたいで。自分の問題だって言う自覚が無いのよ。練習までの間、本当に何をやっているんだか」

それが順子だった。

私は提案をしてみた。

「その子は初めて楽器に触るんでしょ?そんな子ならいつもの事だけど、他の人よりもケアが必要だよね」

「分かった。上級生の編成を工夫して、初心者の子とマンツーマンの練習を増やしてみるよ」

そのときもめ事が起きた。

「トランペットの先輩達、ひどいんです。私、このサークルに入ってもう二か月も経つのに未だに素人扱いをするんですよ。私だって努力しているし、初心者の人が音を出せないマウスピースも一週間もしないうちに音が出せたのに・・・トランペットのパートがうまくいかないのは他の人のせいです。自分はちゃんとやっています」

そう言って譲らなかった。

私は時々、見つからないようにトランペットチームの練習を見ていた。順子の演奏は少し上達はしたものの、やはり表現力が追い付いていない。四か月の練習である程度のレベルを求められる卒業公演では、下手するとパートから降りてもらうことも検討しなければならなかった。

パート練習がある程度進んできて、全体練習が始まった。

同級生の懸念していたトランペットチームは、やはり問題だった。表現力を磨くために一生懸命に練習していた順子は、今度は自分の音だけを追求してしまい、周りに合わせることを忘れてしまったようだ。

楽譜にある強弱も無視して一人だけフォルテッシモで突っ走ったり、テンポも自分のやりたいテンポで演奏をしてしまったりしている。周囲のトランペットとは全く違うテンポの音が聞こえてきて,まるきり合っていない

私は順子にこう言った。

「指揮棒をよく見てテンポを計って。これを追いかけて周りと合わせるようにしてね」

こう助言をした途端、順子がまた切れてしまった。

「田代さん、あなたの指揮のやりかたでは音楽をきちんと表現できていません!あなたよりも私の方がもっと指揮者として全体をうまくまとめ上げられます!」

周囲は唖然として順子の方を見ていた。パート練習すら満足に仕上がっていない子に、指揮者として全体をまとめ上げることを任せるわけにはいかない。

練習が終わってから、私たちは話し合いの場所を持った。

「卒業演奏会までもう日にちが無いよね。トランペットはこのまま行く?」

「いや、合同練習が始まってから反ってあの子は無茶苦茶になったよ。上級生のいう事は完全に無視してるし,何か指摘されてもにやにやする癖が収まらない。私たちじゃもうコントロールできないよ。しかもあれをお客様に聴かせるわけにはいかないよね。小さな音しか出せないならともかく、フォルテッシモで周りの音をかき消さんばかりに吹かれたらたまったものじゃないよ」

「育てるのに時間がかかる子は大勢いるけれど、あの子、なんかピントがずれてるんだよ。トランペットの練習でも、自分の欠点を認めないし、直そうともしない。それに今日みたいに指揮者がどうのなんて言い出すなんて、いかにあの子が自分のやるべきことに集中していないかがよくわかるよ」

最終的に順子にはパートを降りてもらうことにした。卒業演奏会は、結局トランペットが一人足りないまま演奏を終了した。

オーケストラ部では、毎年一年生の春休みに小さなグループに分かれて室内楽のコンテストを行っていた。

部員が多くてもなかなか指揮者のなり手がいないため、毎年五組ほどのグループに分かれて希望者に指揮者を経験してもらうことになっていた。

名乗りを上げてくれるのは大概高校のオーケストラ部で第一バイオリンを担当していた子たちが多いのだが、それ以外の楽器を担当している子も時々手を挙げてくれた。要はやる気だ。

練習中、私や他の三年生の部員はなるべく見つからないようにこっそりと練習風景を見て回った。練習中どのように音楽を作っていくかも評価の対象になっていたからだ。

一年生が初めて指揮にチャレンジする毎年のこのコンテストでは、指揮者がまとめ上げる腕前を試されるのだが、各グループは練習中にその指揮者のカラーがでる。

のんびりと周囲と協力し合って練習するチームは呑気でゆったりとした音。

人を楽しませることが大好きな指揮者は、ダイナミックで陽気な音。

人をまとめるだけで精一杯な指揮者は、時間がかかるもののまとめに入るころにはその指揮者とグループが一丸になって表現しようとする音が産まれる。

順子も指揮者に立候補していた。

順子のチームは、順子が言ったとおりの音楽を表現しようとしていたが、周囲の経験者からは音楽の解釈の違いで意見が分かれてしまい、些細な事で練習がストップし喧嘩になりがちだった。練習も険悪で重苦しい雰囲気になってしまい、周囲に耳を傾けない順子の言いなりになるしかなかった部員はただひたすら順子を怒らせないようにするのに精いっぱいだった。

休憩時間には、各チーム廊下に出てきて息抜きをしていたが、私はそれぞれの指揮者に見つかってしまうと,こうこぼされた。

「田代さん、よくこんなことやってましたね。とてもじゃないけど指揮してまとめるなんて簡単にはできないですよ!」

「皆通る道だから頑張って」

そう声をかけたが、その瞬間,私は廊下で順子に引き止められた。

「田代さん、私の事笑ってるでしょう!」

いきなりものすごい剣幕で言われたので、どう返事をすればいいかとまどった。

「とくに笑う所はなかったよ」

「私のチームがうまく言ってないのを見て笑ってますよね。そうはっきり言えばいいじゃないですか!自分が卒業演奏会や秋のコンテストで指揮を執ったからって・・・あなたよりも私の方が纏められるって言ったけど、今苦しい思いをしてる私を見て笑ってますよね?!」と畳みかけてくる。

練習で疲れているんだろうな、と思った。

「少し休んだらどう?ずっと集中していると気力も無くなっちゃうよね」

このように声をかけたが、順子はなかなか引き下がらなかった。私が順子の事を笑っている。そう思い込んでいる様だった。

「確かにチームの練習がうまくいっていないみたいね。でもそれを気にしていたら時間だけが過ぎて行ってしまうよ?雰囲気が確かに良くないのも気が付いた。でもね、こんなところで話してたら時間だけが過ぎて行っちゃうよ?練習に戻ったほうがいいんじゃないかな」

「でも田代さんは裏で笑ってるんでしょ?私が出来ていないから・・・本当の事を言ってください。あなた、私の事をバカにしていますよね?」

「いいえ。そんなこと考えてもいないよ」

「でも私が困っているのを実際に見ていますよね?笑ってますよね、心の中じゃ」

「そんなこと無いってば。確かに苦労しているみたいだけど、そんなことを考えているくらいなら、反って練習したほうが良いよ。グループの人達を待たせてるんでしょ」

「本当の事を言ってください。あなたが指揮をやったからって、私よりもうまくやったと思っているんでしょ?私が上手くできていないのを見て、バカにして笑ってるんでしょ?」

「そんなことないってば。確かに私が見た時は練習が止まってたけど、そんなことはよくあることだよ」

「ということは、やっぱり私の事をバカにして・・・」

返事をする気力が失せた私は、

「うまく行っていないからこそ、早く練習に戻ったら?」

と言ってその場を立ち去った。

そのコンテストで順子のチームがどのような成績を上げたか覚えてはいない。ただ、廊下で見せたあの順子の剣幕は未だに頭から離れなかった。

翌年の秋、コンテストの時期が来た。その年、順子は指揮者として指揮台に上がっていた。それまでに数度の演奏会で指揮を取り自信をつけたのか、本番は自信をもってタクトをとり、結果としてオーケストラ部はその年の地区大会を優勝した。

私はすぐに現役の人達にカードとお菓子を送り、「頑張ったね、皆すごいよ!」とメッセージを添えた。

就活で忙しい合間を縫っては、後輩たちに会う度におめでとうを何度も言った。三年生という経験値の高い実力や人数が充実していた今年は、実際に素晴らしい成績を残せたようだ。

しかし、その後がまずかった。地区大会優勝を機に、順子は自分たちの方が卒業生たちよりもすごい事を成し遂げたと事あるごとに言うようになってしまった。

確かに地区大会優勝はすごい事だ。しかし、それをわざわざ他の学年の結果と比べることがあるのだろうか。

トランペットのパートを指導した同級生は、そんな比較をして自分たちの方がすごいと言う子はもうこれはお手上げだ、と連絡を取るのを止めたという。一体全体、何のためにトランペットを教えたのか。感謝も無く、比較して悦に入っているようなあの子に真摯に向き合うんじゃなかった、とまで言っていた。

ある飲み会では、冴木は集まっていた面々に向かってこう言っていたと言う。

「私たちの代は、前例を破って二年生が指揮を取りました。これは今まで古い慣習で続いていた三年生が指揮を取るという悪い慣習を打ち破ったかつてない事だと聞いています。

そして二年生の指揮でも、私たちの代は上の世代の人達よりも立派な成績を残しています。

昨年の田代さん達の世代と比べても、私たちの方が結果を出しています。それに地区大会すら突破できなかった田代さんの指揮に比べたら、予選を突破した私の方が全体をまとめる力もあり、田代さんよりもすごい事を成し遂げたはずです。それなのに田代さんは私になんの誉め言葉もかけてくれなくて。「すごい」の一言も言ってくれないんです」

たしかに指揮者は重要なポジションだが、オーケストラは全員が力を合わせて奏でるもの。ましてや経験者の三年生が多いチームとあっては、ある意味私達の代よりも有利な環境だっただろう。

私は何度か順子に皆で力を合わせて優勝をつかみとったのは素晴らしい事だと、言葉を尽くして言ったのだが、彼女にその言葉が届く事はなかった。

逆に、これまでよりももっと「田代さんは私達の事を認めてくれない。私の方が田代さんよりすごい事を成し遂げたのに認めてくれない」と言い回るようになってしまった。これを人づてに聞いて私はがっかりしてしまった。

この人にはどんな褒め言葉も通じない。いくら言葉を尽くしても、相手に届かないのだ。

学生時代の先輩からはこんなことを聞かされた。

「田代、冴木さんがね、「あなた達よりすごい」と言ってくれないって言ってるわよ。あれ、何?」

「私は私なりに冴木たちがすごいと何度も繰り返して言っているんですけどね。先輩たちにまでそんなことを言っているんですか?」

「そうよ。後輩たちが企画してくれている飲み会では、自分たちは卒業生よりももっと素晴らしい結果を残した。それなのに田代さんは田代さんよりも私の方がすごい、と言ってくれないんです、って何度も言ってる。あの子、ちょっとおかしいんじゃない?なんか恨みでも買ってるの?」

「勘弁してくださいよ。恨みを買うような覚えは無いです。何度すごいって言えばあの子に届くのか、こちらが教えて欲しいものですよ。オケ全員で勝ち取った優勝なのに、まるで一人の手柄の様に言っているあの子、どうかしてると思います」

それでも順子は、サークルの卒業生たちに同じことを言い続けた。曰く、田代さんは私たちの方がすごいと認めてくれない、と。

同級生からはこのようにも聞かされた。

「田代、順子ちゃんは、要はあんたより自分がすごいって事を言いたいみたいだよ」

結局は個人の力量を比べて、自分の方が良い指揮者だったと言いたいらしい。

褒めちぎる言葉はもう言い切った私は冴木のしつこさについていけなくなり、少し距離を置かせてもらうようになった。

走馬灯のように学生時代の事が脳裏を駆け巡った。私は居酒屋で頼んだ食事を一人で食べ、その日は家路についた。なんだか後味が悪かった。

翌日、職場に一本の電話がかかってきた。

「マッシモ商事の首藤と申します」

またマッシモ商事か。

私は少し不機嫌になりながら相手の出方を待った。

「いきなりで申し訳ないんだけど、今日会えますか?」

唐突な申し出に私は面食らった。見ず知らずの人といきなり会うなどとは,一体全体どういう事なんだろうか。

「隠す必要はないからいうね。俺、田代さんの大学の同級生にあたるんだ。二〇〇五年、商学部卒業。冴木さんがうちに採用されたときに、同じ大学でオーケストラ部の人の知り合いを通して、あなたが見つかった、というわけ。

人事からレファレンスを依頼されたでしょ? 冴木さんと学部もサークルも一緒だったあなたなら冴木さんの事を良く知っていると思ったんだ。ちょっと冴木さんのことで相談したいことがあって」

これ以上順子に関わり合いになりたくなかったので都合がつかない旨を伝えると、いつなら都合がつくか、どうしても会いたいと食い下がってきた。どうにも逃げ場がなさそうだと見た私は、一週間後にまた同じ有楽町の居酒屋で、電話をかけてきた首藤と会うことにした。

待ち合わせの日、首藤はすでに店で待っていた。

「忙しい時に申し訳ない。ただ、こっちも少し急ぐと言うか・・・レファレンスを取った時にあなたが言ってたことなんだけどね、冴木は自分に自信がある、って言ってたよね」

「はあ」

「あの人、人の意見に耳を傾ける人?」

「よくわかりませんが、衝突は避けないタイプかもしれません」

「今、まずい事になってるんだよ。入社してから少し大き目のプロジェクトを任しているんだけど、職歴に掛かれていたことや面接で答えていた内容がどうも経験と会っていないと言うか。

プロジェクトの進め方も分かっていないみたいだし、失敗寸前なんだよ。このプロジェクト、失敗させるわけにはいかないんだ。ねえ、本当に自分に自信があるだけ?他には何か無い?」

「何かと言われても・・・そのプロジェクト、他の人には回せないんですか?」

「それも考えたんだけど・・・」

「自信がある人ですが、力が足りていないんだったら一旦プロジェクトから外してあげたらどうなんです?失敗できないんですよね?」

「そうは言うけど、会社としてはそれもできないんだよな」

「自信のある人ですけれど、力が足りていないのであれば誰かがはっきりそう言ってあげた方が良いと思います。まだ彼女も若いんだし、育ててあげるわけにはいかないんですか?」

「そうは言ってもね・・・うちも経験者枠で採用しているから、任せようと思っていた仕事がまさかこんなにできないとは思っても見なくて。ものすごくまずい状況になっても、「分かってます」の一言だけでどんどんおかしな方向にプロジェクトを進めていくんだよ。知ったかぶりが酷くて、教育する側の話にも耳を傾けない。もう本当にまずい事になっているけれども,うちとしては決して失敗できないプロジェクトなんだ」

「だったら猶更外した方が良いんじゃないですか?分かってるといいながら本人は分かっていないんですよね?」

「そうもいかなくて・・・」

首藤という人は歯切れが悪かった。順子が何かまずい状況にあるのは分かったが、会社側としてはそれに立ち入ることができないのだろうか。その日は首藤というひとの愚痴を聞かされて終わった。

しばらくして、新聞にある記事が出た。

冴木が勤務する商社が中東とのプロジェクトを反故にし、撤退。競合他社のM社が後を引き継ぐことになったと。そして冴木の会社は損害賠償で訴えられ,多額の賠償金を請求されることになったと。

数か月後、私は久しぶりに会ったオーケストラ部の飲み会で、順子が会社を辞めたと聞かされた。今は、元居た業界の他のメーカーで働いているようだった。

「せっかく入ったばかりの会社なのにね。あれほど転職を頑張っていたのに。もったいない」

周囲はそのように話していた。

具体的に何が起きたのかは分からない。自主退社なのか、それとも会社から何らかの勧告があったのか。ただ、企業がレファレンスを取ることの意味が分かったような気がした。

もし自分の器よりも大きなことを言ってしまったとすれば、会社に入ったあとでトラブルになることもある。それでうまく結果が出せる人であればいいのだが、そうもいかない場合もあるのだろう。首藤という人の焦った顔が思い出された。

あれから二十年近くたつ。現在、順子はそのメーカーの顔として新聞や雑誌に引っ張りだこだ。

人生、何が起きるかは分からない。「置かれた場所で咲きなさい」とあるシスターが言っていた言葉があるが、順子は自分が置かれた場所で咲いたようだ。

自分自身に自信があるのは良いことだ。でもそれが過剰に出てしまい、自己顕示欲が出すぎてしまって、自分を大きく見せすぎてしまっては自分も周囲も幸せにはなれないだろう。

このままそっと、何事もなく彼女が自分の道をまっすぐ歩いて言って欲しい。私はそう願った。

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