【百合小説】主人と従者

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 そっと忍び込んだ立花様の部屋は、やっぱり立花様の匂いに満ち溢れていた。
 この広い屋敷の若い女主人でもある立花様は、普段自分の部屋にあまり人を入れたがらない。親しいご友人が来訪された際も、お客様を二階の私室に通すようなことはせず、大抵は一階の応接間で用事を済ませてしまう。自分の部屋の掃除さえ一人でやってしまうというのだから、初めはその執着ぶりに驚いたものだった。
 そんなある種神聖な場所に、私は今一人きりで佇んでいた。
 立花様は今頃、別館にある露天風呂でじっくりと体を温めているところだろう。長風呂が好きな方なので、あと一時間はこの部屋に戻ってこないはずだ。
 部屋中をぐるりと見渡す。
 一つ一つの部屋が大きめに作られているこの屋敷の中で、立花様の私室は意外なほど小さなお部屋だった。
 部屋の中で嫌でも目につくのが、壁一面に敷き詰められた学術書の数々。立花様は小さい頃から英才教育を施され、史上最年少の若さで博士号を取得したエリート中のエリート。今は国立研究所で理論物理学の研究に従事されているとのことで、つまりは国の研究者という訳だ。
 あまり頭の良くない私なので、立花様のことはもちろん尊敬しているし、正直……尊敬以上の念を抱いていることは、否定できなかった。立花様が、私のような凡庸なメイドに心を向けて下さるはずがないことくらい、当然頭では理解していた。それでも、溢れ出す思慕の気持ちを止めることはできなかったのだ。
 この部屋を訪れて、特に何か特別なことをしようという訳ではない。ただ、立花様が普段、どんな風に生活しているのか、どんなことを考えながら暮らしているのか……それを追体験してみたいと、強く心に思っただけだった。
 立花様が普段使っている机の上にも、いくつか難しそうな本が乱雑に放置されていた。
 私は机の前の椅子に腰掛け、その内の一冊をそっと抜き取り、胸の前で軽く抱きかかえる。気のせいかもしれないけれど、人肌にも似た温もりが確かに腕の内側から伝わってくるように思えた。
 立花様と同じ椅子に座り、同じ本を手に取っている……背徳感と幸福感が同時に押し寄せ、背中の辺りがぞくりと震えた。
 続いて、私の興味はさらなる禁忌の空間——つまり、立花様のベッドへと向けられた。
 屋敷の中の誰をも寄せ付けず、一人この部屋に籠もって難しい考え事をされ、眠るときもこの少し大きめのベッドを一人で占有している……きっと、立花様はそんな生活を毎日続けているに違いなかった。
「これが、立花様のベッド……」
 静寂に満ちた部屋の中で、私は誰に言うでもなく掠れた声で呟く。
 花柄もなくレース模様もない、本当に実用のためだけの質素な掛け布団が、やや乱れた形でシーツの上に置かれている。
 布団の中に手を滑らせると、まだ僅かに体温の名残が感じられた。こちらは錯覚ではなさそうだ。恐らく、お風呂に入る直前、立花様はここで寝ころびながら何かの御本を読んだりしていたのだろう。
 そう、きっと、こんな風な態勢で……。
 私は、立花様の美しい肢体を想像しながら、体全体をベッドに潜り込ませた。
 途端、独特な甘い匂いが一段と強く感じられて、まるで立花様に抱きしめられているような心地がした。
「幸せ……ずっと、このままこうしていたい……」
 こんなところを誰かに見咎められたら——なんてことを考える余裕もなく、今はただ、立花様の気配を肌で感じていたかった。
「立花様……立花様……」
 愛しい人の名を、小さな声で何度も声に出す。
 それはまるで、自分自身に子守歌を歌っているかのようで……。
 段々と瞼が重くなってきて、次第に意識がはっきりとしなくなってくる。
 どこまで記憶があったのか、定かではないのだけれど……ともかく、私の記憶はその辺りからすっぽりと抜け落ちてしまっていた。

「んん……」
 寒く薄暗い部屋の中で、徐々に意識が覚醒していく。
 もう朝が来たのだろうか……それにしては、まだまだ寝足りない気分だった。しかし、メイドたる者、ご主人様より遅く起きる訳にもいかない。眠かろうがなんだろうが、朝の支度はしっかりこなさなければいけない。
 そうして名残惜しみながら布団を押しのけ、体を起こした瞬間——私は、自分がとんでもない状況に身を置いていることに気がついた。窓の外はまだ真っ暗で、屋敷の中も寝静まっているような気配がした。つまり、これは……。
「……ああ、起きた?」
「ひっ」
「ふふ、何を驚いているんだい? 私の部屋なんだから、私がいたって何も不思議じゃないだろう」
「り、立花様……」
 今、自分がどんな状況下に置かれているのかを悟り、ああ、これでここでのメイド生活も終わりだなと思った。他のメイドさんに見つかったのなら、まだ言い逃れやら口封じやらが通じるだろうけど、本人に見られてしまってはもうどうしようもない。不法侵入は重罪だ。クビにされたって文句は言えまい。
 立花様は小さな明かりの下で読んでいた本を手元に残し、つかつかとこちらへ歩み寄ってきた。
「雫があまりにも気持ちよさそうに寝ていたから、起こすのも忍びなくてね。なんなら、朝までその調子で眠っててくれても構わなかったんだけど」
「そ、そんな……畏れ多いです……」
 畏れ多いも何も、既に相当のことをしでかしている訳だが、頭がパニック状態でうまく思考が回らなかった。
「そうだねえ……確かに、黙って勝手に私の部屋に入ったことは、咎められるべきかもしれないね」
「はい……本当に申し訳ありません。どんな罰でもお受けいたしますので、あの、どうか酌量の程を……」
「さあて、どうだろうねえ」
 立花様は不適な笑みを浮かべて、私の頬を包み込むように手を添えた。
「どんな罰でも……雫は今、確かにそう言ったね?」
 立花様の美しい顔がぐいと近づけられる。薄明かりに照らし出された尊顔は、陰影が濃く、目鼻立ちのはっきりした様子が鮮明に映し出されていた。
 本当なら、雫と名前を呼ばれるだけでも天に舞い上がってしまいそうなのに……こんな風に、白く細長い指先で触れられるなんて、もう、このまま永い眠りについてしまっても悔いはないんじゃないかと思われた。
「よし、そういうことなら、今日の夜は、私と同じベッドで寝なければならないという罰を与えよう」
「…………え」
「それじゃ、ちょっと失礼して」
「な、り、立花様っ?」
 あろうことか、立花様は掛け布団をひょいと持ち上げ、私の隣に寝そべろうとしているのだ。もちろん私は慌ててベッドから離れようとしたが、立花様はそれを逃すまいとして私の腕をひしと掴んできた。
「こら、これは罰と言っただろう? おとなしく添い寝したまえよ」
「で、でも……」
「なんだい……もしかして、雫は私のこと嫌っているのかい? だとしたら、かなりショックだな……」
「い、いえっ、けしてそんなことはっ」
「そう? なら、一晩くらい一緒に寝るのも悪くないだろう?」
 その理屈もどうなんだ、と思ってしまったけど……こんな「罰」で許されるのであれば、お安い御用どころか単なるご褒美にしかならない。
「いやあ、雫が温めてくれたおかげで、ベッドも冷たくないし、すごく快適だよ。ちょっと枕は狭いけど、まあ、くっついて寝ればなんとかなりそうだね」
 そう言って、立花様は私にぴたりと体を寄せ、首筋の辺りに顔を埋めた。普段は結ばれている立花様の髪の毛がふわりと広がり、さざ波のようにゆらゆらと揺らめいていた。
 私には身に余る幸せが一度に押し寄せてきて、かえって罪悪の念が沸々とよみがえってくる。あまりに清らかな立花様の優しさに触れて、むしろ自分の醜さが際立って感じられてしまった。
 私は悪い行いをしたはずなのに、どうして立花様はこんなに優しくして下さるのだろう……それが不思議で仕方がなかった。
「あの、立花様……」
「ん、なんだい?」
「その……立花様は、このお部屋に人を入れるのが、お嫌だと聞いていたのですが……」
「うん、まあ、嫌と言えば嫌だね」
「で、では、どうして私のことはお叱りにならないのですか?」
「…………」
 私の問いかけに、立花様は黙りこくってしまった。やはり、本音のところでは腹立たしく思っていらっしゃるのだろうか。私は裁判官の審判を待つ被告人の心地で、立花様の続きの言葉を待った。
「私は……私には、雫を叱る資格なんてないよ。私も同じ罪人だから……」
「罪人……?」
 その言葉の意図が理解できず、私は立花様の言葉を繰り返す。
「雫……これから話すことは、誰にも言わないでくれるね……?」
 立花様の腕がすっと伸びてきて、背中の方にまで回される。ひしと強く抱きしめられて、私の体は金縛りに遭ったみたいに動かなくなった。
「ああ……柔らかくて、いい匂いがするね、雫は……」
 そう言って、立花様は私の頬に何度も口づけをした。私はただされるがまま、立花様の愛情表現を受け入れ続けていた。
「私はね、ずっと、この屋敷の女主人として、恥ずべき感情を雫に抱き続けてきたんだ……分かるかい、雫」
「え……」
 突然の告白に頭が全く役割を果たしてくれない。
 立花様がこれから言おうとしていること——予想がつかない訳ではなかったけど、同時にそれは絶対にあり得ないことで、だからその矛盾にどう向き合えばいいのか分からなかった。
「主人は雇用者全員を対等に扱わなければならない——それが基本中の基本なのに、どうも私には守れそうにないんだ……ずっと雫を、邪な目で見続けてきた。雫を自分のものにしたいと思っていた。最低だろう、主人失格なんだ、私は」
「嘘です……どうして、そんな嘘をおっしゃるのですか」
 そんなことがあるはずない。私のような人間が、立花様に愛されていい訳がない——今の私は、与えられようとしている愛の深さにただ畏れおののくばかりだった。
「信じられないかもしれないけど……本気なんだ、雫」
 体を起こした立花様の顔が少しずつ近づいてきて、先に額と鼻先が軽く触れ合った。私の右手に立花様の左手が重なり、指先同士をしっかりと絡め合う。
 不思議と段々抵抗感がなくなってきて、全身から力が抜けていく。全てを受け入れる覚悟を決めて、軽く目を閉じた。
 唇に幾度となく柔らかい感触が重ねられる。目を瞑っていても、立花様の瑞々しい唇の輪郭がはっきりと瞼に浮かび上がってきた。
 衣擦れの音と、時折漏れる湿っぽい声だけが、私の鼓膜を震わせる全てだった。
「はあ……」
 やがて呼吸が苦しくなってきたのか、立花様は倒れ込むように私の上に覆い被さった。その華奢な身体は、実際よりも何倍も重たく感じられた。
「今更だけど……愛してる、雫……」
「立花様……私もです」
 私がそう口にすると、立花様は子供を寝かしつけるように何度も頭を撫でてくれた。
「二人きりのときは、立花でいいよ」
「そ、そんな、呼び捨てなんて、私には無理です」
「お願い、雫、二人でいるときくらい、立場を忘れさせておくれよ……」
 立花様は髪の毛にキスをしながらそう懇願する。
 ご主人様に……いや、私の尊敬する大好きな方に、そんな風にお願いされてしまっては、断る術などあるはずがなかった。
「わ、分かりました、り、立花」
「ふふ……照れてるともっと可愛くなるね、雫」
「~~~~っ」
 立花様のからかいの言葉を真に受けて、つい頬がかあっと熱くなってしまう。そんな風にいじられるのは悔しい反面、心のどこかでちょっと楽しんでいるような気がしなくもない。
 そうやってしばらくお互いの体に触れ合い、戯れているうちに夜も更けてきて、私は再びうつらうつらとしてくる。
「もうだいぶ遅い時間だし、そろそろ寝ようか」
「そうですね……」
「おやすみ、雫」
「おやすみなさい、立花」
 最後にもう一度軽めのキスを交わして、私たちは横並びに寝転がった。
 寝ている間も少しでも近く立花様を感じたくて、その細くしなやかな腕を、自分の腕でぎゅっと絡めとった。(終)

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