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雑感 「エッシャー通りの赤いポスト」

 地元秋田では上映予定がなかったので、夜行バスに乗り渋谷に降り立ちユーロスペースにて鑑賞した。渋谷で見ることに意味があると、私より一足先に見た知人が言っていたからだ。
 映画は好きだ。自信をもって好きと言えるかは分からないけれど。自信のなさは、「どうせ私より映画に詳しい人なんてごまんといる」という気持ちから来ている。映像制作にも部活として携わったことがあったし、シナリオの持ち込みもしたことがあったが、好きなものを好きと言える自信は死ぬまでに掴めるのだろうか?
 死ぬまでなんて待てねえよと思ったのは、「エッシャー通りの赤いポスト」を見た直後だった。映画を見た後は映画と現実の境が曖昧でそのせいか映画館を出た後無駄に用もない道を歩く。渋谷の街を長く歩いた。夕方だった。安子と切子のいたスクランブル交差点を渡れずに、ユーロスペースのある、109のある方の区画をぐるぐる歩いた。センター街の椿屋珈琲に入ってやっと映画のパンフレットを鞄から出す。それでも表紙を開くことに時間を要した。Twitterを見る。映画を見た後にすぐ感想をアウトプット出来る人間が羨ましい。ハッシュタグをつけて上手いこと140字に収めて言いたい。今だって上記のような長い助走がないと本題へ切り込めない。
 言いたいことはたくさんある。園監督の撮る女性はやっぱり魅力的だし、観客にストレスを与え抑圧を感じさせるようなシーンには必ずユーモアを入れて楽しませていただいた。でも、何よりも感じたことは…やはり「何か」に抗い続けた人間の作るものはなによりも尊いということだ。
 「何か」ってなんだ?世間体や安定といった世の中の根強くしつこく誘惑してくる類のものだ。かつて髪を伸ばしフォークソングを歌っていた青年たちの髪を断ちスーツを着せたらしい。尖っていた人間を丸くもさせた。あなたたちはどうやら主役ではないらしいと囁き続けるものだ。
 およそ2時間半あっという間の激流はそういう「何か」からの結界になり得るものだった。園監督が今まで生きてきて守ってきた何かが私たちの結界となり、また、スクリーンにかつての私たちを蘇らせてくれる甦生装置だった。そして、何か大事なものを捨てきれず諦めきれず生きている全ての人間へ対する優しい眼差しだった。
 この映画を見て流された涙の中に私のものがある。流された涙が水たまりとしてどこかにあるのだとしたら、その水溜りに100人分の涙が入っているのだとしたら、そうだとしてもすぐに私の涙が見つけられる。きっと100人みんながそうだろう。そんな映画だった。

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