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日本人に生まれたら、俳句をお詠み(ひさびさに)

何度か書いてますが、わたしは二十代前半のころに現代俳句と前衛俳句の両刀で俳句に入りました。現代俳句の花房治美子(はるみこ、と読みます)というおばあちゃん先生に、幻想俳句っていうのやってるんですと言ったら、季語をたのまず、定型からも離れていたらじきに詠めなくなるよと言われました。生涯作れなきゃいけないんですかね、この一句!ができたらそこでやめてもいいでしょうとわたしが言い返したら花房先生は、やってごらんなさいなと言い、この子は何にも知らないんだなというような顔をされた。

実に、わたしは何も知らずにはじめた。その知らなさ加減、下手さ加減と言ったら、その頃のノートがまだとってあるのですが、死ぬ前には絶対に焼いておかないといけないと思えるシロモノ(だったらいま焼け)。

どう下手だったか。端的にいうと、思いをそのまま書いてしまう。いや、そういう勢いも大事なんじゃないかという意見が出てきそうなんですが、ちがいます。断じて下手は下手。なにかありそうな下手ではなく、創作以前の下手。

(下手にも2種あるかもしれません。形は一応俳句なんだけど、単語過剰でごちゃごちゃしてるタイプ。わたしは逆でした。最初から悠々と、ちょっとしか描かない。だってわたしの思いはこうなんだ、これ以上でも以下でもない、なんて開き直るタイプ)

俳句は白紙に一点、好きな風に落とすところから始める創作なのですが、芸術よりもお稽古ごとやスポーツに似ています。文学ではなく文藝。
あ、そう、詰将棋にも似てます。そのモチーフで、そういうことが眼目であれば、じゃあ、こうかな、という答えに似たものがあるという点で、理詰めの詰将棋みたいなところがある。

ゴルフのスイングで、からだが自然に動くままに気持ちよくクラブを振っていたら、金輪際まっすぐ飛ぶことはない。ありえないような窮屈さに矯正して、これまたありえない数のチェックポイントを多変量解析して、ある意味他人のようなフォームを獲得して、その範疇で徐々に、いやおそるおそる思い切りを増やす。増やしすぎるとまたフォームが崩れる。この繰り返し。レッスンプロに習うと球がまっすぐ飛ぶようになるけれども、まだ自動化してるわけじゃないのでちょっとしたことでまた変な球になる。いわゆる運動でいう自動化するには、以前の間違ったスイングを意図的にやってみて、今のはこれこれここがダメだと、正しいスイングはこうだと、そこが往復できないといけない。思うようないい球が出始めるとそれだけを体に叩き込もうとする、戻るのは怖くてできないといううちはまだ半端で、体に染み付いていないのですね。

俳句もこれとまったく似たところがあります。

《私》を出すならフォームに包んで出す。

フォームの中で存分に暴れる。暴れすぎると、型が崩れそうになる。そこをこらえる。

そのうちに、やっぱり拘束に感じる、このやり方では表せないものがあると考える人も出てくるでしょう。フォームを壊す必要があると思う人とそうでない人に分かれるのかもしれない。
そもそも、いいたいことがあるわけじゃない、そこに油絵具とキャンバスがあるから、そこに風景があるから描く、というスタンスもある。手元にカメラがあって、被写体は世界の質量分ある、だから撮るというのも同じ。
いいたいことはなくてもたのしめるほうが、わたしは最近、豊かなことなんじゃないかと思ったりしますが、いいたいことが先立つなら、どんどん壊していくのもいいと思います。
さらにいえば、いいたいことが先にあるなら、型は俳句に限らなくていい。これは短歌に伸ばそう、口語にして川柳でいこう、自由律でいこう、これらはあとから選んでいい。
そんな、俳句だけでもやすやすとは熟達しないのに、あれやこれや手を出すとか無茶だという意見も分かりますが、モチーフやテーマやイイタイコトによって、どうしても俳句に収めなきゃいけない、そう決めてかからなきゃいけない、なんていわれはどこにもありませんから。

壇上のお先生方はお怒りになるかもしれませんが、俳句も俳句自由律も川柳も短歌も、見様見真似で、できます。
だから、だから、すばらしいんです。日本人に生まれたらみんな詠みなはれとか、そうじゃなければ言えないでしょ。

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