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言葉が上手く出ないときは、吸収する時期なのかもしれない

noteに何か書きたいのだけれど、アプリやエディタを開いて何か入力しても、話が広がらない。

ちょっとした話題はいくつかある。
だけど配分を間違えたお菓子の生地のように、どうも上手くまとまってくれないのだ。

どうしたものかと、愛用のノートにジャーナリングをしたり、紙ものを切り貼りしてコラージュをしていたところ、ふと考えが浮かんだ。

そうか、今は言葉を放出するより、吸収する時期なのかもしれない、と。

実際、今年に入ってから積極的に本を読むようになった。
好きなジャンルはもちろんのこと、新しく興味を持ったもの、積読本、そして昨年なぜかほとんど読む気になれなかった小説。

小説は現在、小川糸さんの「ライオンのおやつ」を読んでいる。
読了したら、図書館で借りた平野啓一郎さんの「マチネの終わりに」をじっくり読み込もうと思う。
千早茜さんの「透明な夜の香り」や、ミヒャエル・エンデの「モモ」も積読本として控えている。

読書以外の楽しみも増えた。
昔好きだった漫画を読み返したり、数年ぶりに大河ドラマが毎週楽しみになった。

また、noteで検索したり、おすすめやスキ履歴をたどったりして、ほかの方が書いたものにもふれている。

人間はわがままなもので、時折「あまり人と関わりたくない」「ほかの人にどう思われるのか気になる」と言いつつ、結局人が何を考えているのかを参考にする。
そして自分の考えや個性を確立させたり、似たような意見を見て安心するのだ。

そのくらい、ほかの人の考え方は興味深い。
「自分の常識は他人の非常識」とはよくいったもので、ネットに限らず学校や職場、習い事、子ども関係、さらには歴史上や架空の人物と、尊敬することもあれば「こんな人がいるのか」と呆れることもある。

とりわけ、誰がどういう考え方をして暮らしているのかが、noteは分かりやすい。

noteは役に立つことばかり書かなくてもいい空気が流れている。
個人の思いや日記を、時にトーストのバターみたいにさっと塗りつけ、時に煮詰めたジャムのように瓶詰めにしたような、言葉の集う場所。

さまざまな考えにふれているうちに、心が反応し、相対的に「私はこう思うな」と自分の言葉がふと浮かんでくる。
それは誰かのnoteを読んでいるときかもしれないし、外でお昼ごはんを食べて帰路につくときかもしれない。

いろんなものを吸収して、言葉やそれ以外の形で表す。
あまり難しく考えずに、心が指し示すままに。


※ヘッダー画像はみんなのフォトギャラリーからお借りしました。ありがとうございます。

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