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誤配としてのデザイン

誤配

批評家の東浩紀氏をご存知でしょうか。

フランスの哲学者「デリダ」についての研究に始まり、オタク文化を独特の目線から論じたり、SF小説で三島由紀夫賞をとったりしている方で、いまだに文芸批評の最前線で活躍されています。

大学生のとき彼の講義を受けていたため、私にとっては東浩紀である前に東先生でした。

教室で感じた彼の話術の巧みさと、のちに読むことになった著書における文章の明快さは、現代思想という非常に難解で複雑な概念を学ぶにあたって革新的といえるものでした。

学び舎を出て数年経つ今でも、彼の世の中に対する考え方や、テクノロジーとリベラルアーツを紐付けて未来の社会について語る言葉をしばしば目にしては感銘をうけています。

さて、現在日経が連載している「哲学者が考えていること」シリーズに東浩紀氏の回がありました。

「現在のネットは、ユーザーが自分と同じ意見を発見するための装置という面ばかりが増幅されている。政治的な発言も『みんなが自分と同じハッシュタグを使っているから安心』という状態だ。ツイッターで集まるのはただの数でしかない

たとえば「#検察庁法改正案に抗議します」「#BlackLivesMatter」が記憶に新しいように、特にここ数ヶ月間だけでみてもツイッターで政治的・社会的な発言が盛んです。

思い返せば震災直後も顕著にその傾向がありましたが、それについて彼はこう語っています。

「SNS(交流サイト)上で不毛な論争が起き、リベラルは力を失って焦るあまり攻撃的に変わってしまった。議論の無力さをこの10年間感じている。議論が機能するためにはその根本に『対話』が必要なのではないか

なるほどたしかに、一方的な発信と、それに対する揚げ足取りや議論のすり替えなどが横行するSNSでは、議論が機能していないように思えます。

これはSNSを常日頃から使っている皆さんもうすうす感づいているところでしょう。

そこで、ひとりの抱え込む何かしらの言説や思想は、自分の予想だにしない人の考えや行動と触れ合って(対話)、思考・思想がアップデートされる状態を目指すべきであり、それが理想であるというのが東浩紀氏の考えです。

その対話にいきつくための手続きを彼は「誤配」と呼んでいます。

「誤配」は、冒頭で記したデリダに関する論文において東浩紀氏が抽出した言葉でもあります。

その論文において、手紙が正しい宛先でなく自分の予想だにしない宛先に届くように、コミュニケーションや言葉に関しても「誤配」が存在すると彼は論じていました。


デザインと誤配

さてこの「誤配」ですが、自らのつくりだしたモノが自分の予想だにしないものに変化・昇華していくという意味において、私は自らの専門である「デザイン」という行為の中にその概念を見いださざるをえません。

私はデザインという広い概念の中でも、特にWebやアプリのUI(ユーザーインターフェース=操作画面・操作方法)デザインを専門としております。

「デザイン」という言葉は日本ではクリエイティブでアート性が強いイメージが真っ先に思い浮かぶ人が大半だと思いますが、あらゆる「デザイン」の中でも、ソフトウェアのUIデザインは最も論理的であることが求められる「デザイン」のひとつだと私は日々感じています。

ソフトウェアの見た目・振る舞いの設計がロジカルに導き出されたものだと、エンジニアリングの観点からみても実装しやすいという面などから評価されやすく、ビジネスの観点からみても実装のしやすさを理由にはやく開発が進められることに加え、デザインというフェーズに対して人への依存性が低く再現性が高くなるため、大半の社内ステークホルダーに好まれる傾向にあります。

なるほどたしかに改善をし続ける前提のソフトウェアにおいては、そういった社内のニーズやユーザーのためを思えば、ロジカルにUIデザインをおこなうことは必要条件ではあるでしょう。

しかしながら、デザイナーはロジカルであるだけではいけないのです。

もっと極端にいうと、ロジカルなデザイナーは、自らをロジカルに見せかけているだけのことが大半だと私は思っております。

デザイン行為は元来、抽象的なコンセプトがありそこからブレイクダウンしてビジュアルに落とし込んでいくようなキレイな手続きではありません。

デザイナーは何にせよまず「つくる」こと(クラフト)から始めます。

彼らは手始めにビジュアルや造形を何十個も何百個も何千個もつくり、あらゆる「死んだ可能性」に想いを馳せながらも常に「新しい可能性」を生み続け、そんな混沌の最中に一筋の光を見出してつかみとり、最後にその光までの道筋を最後に俯瞰してみて、コンセプトとして抽象化するものなのです。

つまり、創造行為が先にあり、後づけで恣意的に物語化しているのです。

表現する行為が先行しその行為の中でデザインの思考が駆動されているという認識は、「デザイニング」の成り立ちと意味を理解する上で重要である。
(引用元:須永剛司『デザインの知恵』)

本日上場したグッドパッチしかり、デザイン会社がクライアントに対してデザインを提案するとき、多くの場合は「コンセプト→ビジュアル」の順番でプレゼンするのが慣習です。

しかし実際のところは、とある革命的で本質的なコンセプトが突然誕生して、そのコンセプトから落とし込まれた色や雰囲気を必然的に定義し、最後に具体的にロゴやUIなどのクリエイティブが生み出されていく……というのは稀です。

むしろ、スケッチをひたすら思いつく限り描いていく中で具体的な形を思いついたり偶発的に生まれたりして、それをコンセプトとして抽象化するというケースが実際はほとんどなのではないでしょうか。

(ただプレゼンの際は「コンセプト→ビジュアル」の方が説得力があるので、あたかもそのコンセプトから導き出したようにロゴやUIなど各種クリエイティブを提案するわけです。)

ですからデザイン行為の本質というのは、コンセプトから具体に落とし込む行為にあるのではなく、先んだった創造行為同時に抽象化する物語化行為にあるのです。

決まった道筋を進むのではなく、具体と抽象を行き来して自らを偶然性という混沌に導き、考えを昇華させていく手続きは、その意味でまさに東浩紀氏のいうところの「誤配」と近しいといえませんでしょうか。

その場合、正しい宛先は「ロジカルに導き出した答え」で、一方予想だにしない宛先は「混沌の中で導き出した一筋の光」ということになりますが、お気づきの通り手紙を送っているのも受け取っているのも自分です。

自らより自らへ「誤配」しているのですね。

デザインという作業は非常に孤独なものですから、「対話」(文通)する相手が自分しかいないというのもデザイナーらしいといえます。

デザイン、もっと広くいってしまえば「よいクリエイティブ」というのはすべて「自らより自らへ誤配する」プロセスを経てつくられるものなのではないでしょうか。


クリエイティブジャンプを目指して

あらゆる「死んだ可能性」に想いを馳せながらも常に「新しい可能性」を生み続け、そんな混沌の最中に一筋の光を見出してつかみとり、

と先程記しましたが、この光をつかむことを一般にクリエイティブジャンプと呼びます。

そう、デザイン行為にはクリエイティブジャンプが必要なのです。

クリエイティブジャンプのない、ロジカルな思考のみによっておこなわれたUIデザインは単調で、誰もがそこに行き着くようなものになってしまいます。

それはよくいえばシンプルですが、言葉を言い換えればわざわざ人間がやらなくてもいいことを人間がやっているようなもので、今後遠くないうちにAIがすべておこなうようになります。

ビジネスにも多くの面で創造性が求められている今、以前に比べてUIデザインにさえもクリエイティブジャンプが必要になってきているといえます。

クリエイティブジャンプをおこすためには、紙・画面・キャンバスに向かって「つくる」こと(クラフト)から始め、再現性や開発コストなどの制約を一度頭の中で取り払い、偶然性という混沌の中に自らを置き、自らの中で自らに対して「誤配」をおこない続けるのです。

言葉を描きなぐったあとコピーとして綴るコピーライターも、
出来事を書きなぐったあと物語としてしたためる小説家も、
フレーズを弾きなぐったあと曲として紡ぐ作曲家も、

皆自らの創造行為の中で「誤配」を繰り返した末にできあがってしまったものを作品と呼ぶのであり、その緊張感と態度を、UIデザインに関わる私たちしかり、近年クリエイティビティが求められるようになったすべてのビジネスマンは参考にすべきなのではないかと考えています。

誤配こそが社会をつくり連帯をつくる。
だからぼくたちは積極的に誤配に身を曝さねばならない。

(東浩紀「ゲンロン0 観光客の哲学」より)

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