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【毎日短歌】異邦人/カミュ【書評】

他人の心を土足で踏み荒らす
正義のヒーロー 「人間性」


沖縄旅行の飛行機の中でフランスの文豪カミュの異邦人を読みました。
図書館で何気なく手に取ったのですが、さすが名作。面白かったです。

あまりに有名で、現代の古典とも評されるほどの作品なので僕の書評なんて参考にならないとは思います。18歳の読書感想文と思ってください笑(実際そう)


「あらすじ」
 主人公ムルソーは母の死に涙を流さず、翌日に海水浴に行き、女と寝て、喜劇映画を見て笑い転げ、友人の女出入りに関係して人を殺し、裁判で「太陽のせい」と答える。死刑を控えるが、幸福を確信し、処刑の日に大勢の見物人が集まり憎悪の叫びを上げて自身を迎えることを望む。
 第1部ではムルソーが起こす事件、第2部ではムルソーを糾弾する裁判の2部構成。


 主人公であるムルソーと第2部に登場する裁判に関わる人物たちは明らかに対照的に描かれています。
 ムルソーは太陽、海、光などの自然を愛し、自分の感情をそのまま大切にする。身の丈以上の感情は喋らない。
 裁判に関わる人物たちはいわゆる社会通念を大切にする。模範的な社会人。「人間性」を兼ね備えている人物。

 この小説の中で、主人公ムルソーは「人間性」が欠落した狂人として描かれます。一般的な心の動きがなく、神を信じない。社会の異端。サイコパス。
 裁判ではそうした主人公の性格が咎められ、当然の事として死刑を言い渡されます。

 当たり前だ。そのような精神異常者を野放しにすることはできない。死刑だ。
 確かにそうですね。その通りだ。
 でも本当にそうなのか?と疑問を投げかけたのがこの作品で、カミュが感じる社会での生きづらさと社会通念への疑念と苦悩。それがこの小説のテーマのように思います。

 なぜ、ムルソーは「人間性」がないとされたのか?自分の感情や直感に正直な人物はは人間ではないのか?自分の気持ちに嘘をつき、世間話をするダス=マンのほうが「人間性」が無いのではないか?それは自分自身ではなくて社会の意思なのではないか?そこに人間としての価値はあるのか?

 非常に共感できることが多い作品でした。ムルソーは僕自身だと思いました。僕も高校生活で自分を押し通した結果、コミュニティーから排除された事が幾つもありました。今ではもう諦めがついて周りに合わせるようになったんですけどね。これって現代人の根本的な悩みですよね。
 でも、それを理解していない人も結構いる。知らず知らずのうちに世間に騙されて支配されちゃってる人間が。僕の周りにもいましたもん。そう言う人。一応偏差値74の進学校なんですけどね(笑)。と言うことは社会に出たらもっと、うじゃうじゃ居るはずです。異邦人を読んだ事がない人も大勢。

 過去に一度言われた事があるんですよ。「お前の人間性の問題が〜」って。それがずぅーっと引っかかってて、周りにも自分が非常識な人間だって思われたくなかったから誰にも言えずにとてつもない孤独を感じてました。じゃあ僕のこの気持ちやとめどない感情は何なんだろうなーって。これが人間の感じるものじゃないなら僕って何なんだろうなーって。
 でも救われました。この本に。思ってた事が全部書いてあった。この本が現代の古典と言われているならば、自分と同じ悩みを抱えている人も他にもいる訳で、ホッとしました。
 だけど、僕たちはこの現実を生きていかなければいけないんですもんね。辛い事です。逃れがたい宿命のように感じます。

 そして、他の価値観を押し付けられることは、ましてや預かり知らない価値観で裁かれるなんてこんなに不快なことはないです。割と僕も自分の気持ちを尊重したい(と思ってる)人間なので、色々と沁みました。

 「人間性」や「常識」って言葉は場合によっては、人の心を土足で踏み荒らしますよね。しかも正義のヒーローの面をして。タチが悪いです。
 このことをもっとたくさんの人に知ってほしいし、自分もそんな事をしないようにしていきたいです。


最後までお読みくださってありがとうございます!
それでは⭐️

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