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多様性が呼ぶ

 先ほどツイッターを見ていた際に、こんなツイートがあった。

「ゲームのキャラなどの名前を決めるときに、差別用語になってしまい、アカウントが停止してしまった。」というものだ。この人は他国の差別用語に抵触する恐れがあるとして、アカウントの一時停止をさせられた。今までのゲームであれば問題なかっただろう。
 では、何故、問題になったのか。
 それは、意識の低さなどではない。その理由は世界が広がったことにある。インターネットや、他のものが多くの人の前に自分に関係するものが晒されえられる時代になった。このような時代に、ジェンダーの問題であったり、ヴィーガンの運動だったり、多様性の時代に突入したのだ。
 それの影響もあるだろう。だが、もう一つ要因は存在する。その運動などに人々が触れる中で、心の在り方が変化していき、敏感な心になったのだ。それ自体は、素晴らしいことだ。だが、その反面、面倒くさいことになっている。

 それは、このツイッターのような出来事だ。

 海外の人の目に付くから、その表現を排除する必要があると思われて、BANされたのだろう。自分でもこんな事を言いたくはない。だが、もう仕方がないと思っている。警告なら判るのだが、一気にBANというのはなかなかに酷である。端的に言えば可哀そうだ。調べるサイトも在るとはいえ、そんなに全部の差別用語を載せているわけでもない。なのに、それは、酷だと思う。日本人は差別やジェンダー問題など欧米で盛んな問題をそんなに考えていないと思う。
 そのような差別事は自国の教育しかなく海外の機会がない、独自の民族過ぎて海外の事を学ぶ機会もない。英語も学習という名で押し付けられた、入試専用テストである。そんな国民である為、どうしようもないのだ。

 差別用語とは根深いものだ。人間の歴史上、排除したいとき、何だかんだ理由をつけて、勝手に利用される。それが差別というものだ。凝り固まった考え方というものは、なかなか溶けない。まるで、大きな氷河のように、永遠と残り続けるものだ。だが氷河も、近年地球温暖化の影響で、溶けてきている。ゆっくりとであるが。差別も氷河の様であるのならば、溶けて無くなることを願う。まあ、地球温暖化は止まってほしい。自分が生きている間でいいから。

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