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螺旋な人生/連載エッセイ vol.88

※初出:知事認可・岩手県カイロプラクティック協同組合発行、「姿勢ッコくらぶ通信 vol.90(2015年・第5号)」掲載(原文ママ)。

親愛なる読者の皆様こんにちは…博士デス…。
『ヒロシ』じゃなくて『ハカセ』デス…。

…と言う事で、通信表面にも記述があるように、おかげさまで遂にワタクシ、『博士号』を取得した。
その前段階となる『修士課程』から数えると、足掛け5年になるので、本人としては『やっと終わった』という感情が強いのであるが、お客様をはじめとする周囲のリアクションから伺うに、『博士』という言葉の響きが持つ『説得力』や『影響力』は、やはり小さくはないらしい。

(ちなみに、お客様から頂戴した『お祝い』の大部分が、『農作物』だったコトは、地域性を反映する、微笑ましいエピソードであった……ナニ目線!?)

通常であれば、それを受けて今号のエッセイのネタは、韓国で行われた『学位授与式ツアー@ソウル』のお話を、面白おかしく展開する所であるが、私の博士号取得の詳細記事自体が、編集の都合上、来号へ持ち越された状態である為、今回は『後日談』的な内容で…。

早いもので、私がこの道の勉強を始めてから、既に19年の月日が流れた。

厳しい採用試験を何とか突破し、充実した社会人生活を送るも、自分の夢を諦められずに、周囲に莫大な迷惑を掛けつつ、中学校社会科教諭としての職を辞した日から数えても、16年が経過してしまった。

これだけ長く活動していると、その中でもいくつかの『節目』となる出来事も発生し、今回の『博士号取得』も、間違いなく『大きな節目』と呼べるのであろう。

普通に考えれば、『おめでたい』部類に入る節目であろうから、これを機に、経営者としても臨床家としても、次なるステージへ、威風堂々意気揚々と鼻高々に踏み出すタイミングであるとも言える。

しかしながら…先日、その鼻っ柱を見事に折られるような出来事があった…。

眠れぬ夜を過ごし、なかなか自己の感情がコントロールできない中でも、否応なく迫ってくる日常。
その時、私は不意に1枚のCDを取り出した。
かなり久方振りに手にした銀盤…。
それは私が教員を辞した直後に作成した歌をスタジオ録音した音源が収められたものであった。

詳細は割愛するが、当時ある長期実践セミナーに参加していた私は、『今まで経験していない事を期間内に達成する』という課題に、『曲を作ってストリートライブを敢行する』というテーマを設定し、挑戦した。

結論から言うと、作詞作曲未経験な私は、なんと1ヶ月の間に6曲を作成し、ストリートライブを実行し、勢い余ってスタジオ収録までしてしまったのだ。

(JR盛岡駅東口のバスロータリー下の半円形階段を客席に見立てたストリートライブは、ワタクシ自身の異常なテンションとハイパワーヴォイスをバックボーンとして、完全に『場を支配した』内容となり、当時駆けつけた仲間内では、暫くの間、語り継がれる出来栄えとなったのは…余談である。)

スピーカーから久々に流れ出した自分の歌声を聴いた第一印象は…

『声、若っ!!』

これは正直かなり恥ずかしい。
歌い方も、稚拙。
指先を使う仕事への影響を考慮して、今ではやめてしまったギターの音色も、まさに『勢い押し』で、お世辞にも上手とはいえない。

しかしながら…自分でも意外な程に聴き入ってしまった。

安定した教職を辞し、この道へ進み始めた頃の『期待』と『焦燥』が入り混じった歌詞は、すぐさま私を『あの頃』へ導いた。
そして私はある事に気付き、激しく落ち込むのである。

『当時も今も、人間としての克服すべき課題、なんも変わってねぇぇぇ~…!!』

この道で本格的に活動を始めて、16年が経過した。
たくさんのお客様が出来た。
店舗も2つ持てた。
博士号だって取得した。

傍から見たら『順風満帆』といっていいキャリアなのかもしれない。

ところが今、鼻っ柱が折られるような事態に直面する『元凶』となった自分の中の課題は、CDに収録された歌声で、『それを克服するために自分は旅立つ』と高らかに歌い上げられた課題と、まったく一緒なのである。

これは正直こたえた…。

自分ではひたすら前進していたつもりで、気付いたら『スタート地点』へ戻っていた感じ、とでも言えばいいのだろうか。
全く成長できていない自分を見せ付けられる気分で激しく落ち込みながらも、何故か再生を停める事が出来ず、耳を傾け続ける。

翌日、店舗へ向かう車中での事。

CDに合わせて、そっと声を出し久々に歌ってみる。
かつて歌声と、いまの歌声がユニゾンで狭い空間に響いた。
そしてその瞬間、私はある事に気付いたのである。

『人生はらせん階段だ…。』

自分も含めて、世の中は『成長至上主義』の名の下、常に自己実現を追い求めている。
でも、人間、本質のところは、そうそう変わらないものなのだ。

変わった振りして人生を闊歩している最中、既に振り払ったものと思っていた過去の自分とその課題に、死角から足をすくわれてしまう。
自分が釈迦の掌で踊っていた事に気付くのだ。

ただ、私は思う。

かつて自分が対峙していた風景と、再び向き合わざるを得ない状況に立たされたとしても、これは『スタート地点』への『強制送還』なのだろうか。

私は思う。
答えは否であると。

ぐるっと回って同じ視点に戻ってきたように見えても、それは完全な『円周』なのではなく、かつての自分とは、少しだけ視野が異なる『らせん』なのだと。

そして『変わらない自分』を受け入れ、それでも前へ進もうとする者にのみ、次なるらせんへの扉が開かれるのではないかと。

もちろん、その新しいらせんが導く先には、かつての自分とほんの少しだけしか違わない視野が広がっているだけだろうけれど…そうして人は長い時間を掛けて、自分と人生に向き合っていくのではないだろうか…。

私はCDをプレーヤーから取り出し、元あった場所に戻す。

これを再び手にしようとする時、自分はどんな心境でいるのだろう。
『大きく』でなくていい。『ほんの少し』だけでも今の自分よりイケていたなら…嬉しいなぁ…。
収納扉を閉じながら、歌詞カード裏に記された当時の自分の言葉を諳んじてみた。

『これまで出会った人へ…どうもありがとう。これから出会う人へ…どうぞありがとう』。


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