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「道」を絶やすな

はじめに

2022年に現代アート作家・日比野貴之氏に弟子入りしてから約2年半。

アートスクール事業も、
自分のアート活動も、
今年から海外へ展開していく

自分に気合いを入れるため、
お世話になっている周りの方々への意思表明としても、
年末に息を切らしながら、記事を一気に書き上げた。

すると、周りの方々だけでなく、noteを通じて、思っていたよりも多くの方に読んでいただいた。

本当にありがたい。

必死に書いた文章だったから、なおさら嬉しかった。

一ヶ月で変わったこと

もちろん、一ヶ月経った今でも、「死ぬまでアート活動をする」という気持ちは全く変わっていない。

それどころか、もっと強まったくらいだ。

しかし、先日書いた記事と違っていることがある。

それは、企画していたタイのギャラリーでアートイベントを行う予定がおじゃんになったということと、
ニューヨークでの展覧会の話が舞いこんできたことだ。

ニューヨークの展覧会の話がきたのは前向きだったが、タイの話が飛んだのは、正直痛かった。

なぜなら、タイでのアートイベントを起点に、バリ・インドの展覧会の費用を集めようと思っていたからだ。

タイのアートイベント中止を受けて、私自身、いろんなことを考えた。

ギャラリーにすべく、一生懸命整えた倉庫

いずれにせよ、アート活動は海外へ展開していかなくてはいけない。

日本にずっと留まっていては、詰む。

去年の5月、銀座で展覧会をやったとき、
銀座のギャラリー街が、大きく変わっていたことに衝撃をうけた。

一年半前に来た、銀座の雰囲気と明らかに違う。

ギャラリーがたくさん潰れていた。

そして、オシャレなファッションに身を包んでいた人たちが明らかに少なくなった。

コロナパンデミックを機に、東京も変わっていくんだろうな…
と思っていたが、変化のスピードがあまりに速すぎる。

強い危機感を覚えた。

減っていく人口、収縮する市場…

アート活動と思うと、日本のアートマーケットだけに頼るのは難しい。

いきなり、海外マーケットに向かうほかない。

師匠の作品、バリで見た夕日を描いた

今しかない

と思っていたら、近頃、師匠のインド人のご友人たちから、どしどし連絡が来ている。

「インドに来てくれ!」という熱烈なラブコールが立て続けにきているだけでなく、
私たちが展覧会をやるために、動いてくれているらしい。

どうしてこのタイミングで、海外のご友人から連絡が来ているのだろう?

師匠のインド人のご友人は、師匠に出会ってアート活動を続けてから、30年が経っている。

おもえば、師匠がホログラムズコラージュという技法を完成させて、
兄弟子がついたのもちょうど30年

アートにおいて、30年というのは、なにか特別な数字なのか。

初めて会ったときの師匠とナレンダー氏

アーティストの活動歴が30年も経てば、ベテランの域だろう。
周りの人も「アーティスト」だと認めて疑わなくなる。

ただ、30年も経つと、支援者が亡くなったり、隠居したりと、
今までの基盤を支えていたものが大きく変わる節目でもある。

今この時期にインドのご友人が師匠に連絡してくれているのには、きっと、ワケがある。

師匠の作品・ガネーシャ

だから、今が大事な節目。
まさに、チャンス!

この機を逃したら、次はない。

だからこそ、タイのイベントが中止になったからといって、
走り出した舟を、海のうえで止めるわけにはいかない。

そんなことをしたら、波にながされてしまう。

今まで支えてくれた人、応援してくれた人がいる。

舟は進めなくていけない。

舟に乗っているのは、自分たちだけじゃない。

アート以外にできることがない

私は、アート以外、何もできない。

師匠にはそう言われていたが、
正直、なかなかこの事実を受け入れられなかった。

中学生のころから、ばりばりキャリアウーマンに憧れていて、企業に就職する前提で大学にも行った。

でも、私には、働く才能がなかった。

今まで8個くらいバイトをしてきたが、ほとんどのバイトを鬱になってやめている。

一緒に働く人に嫌な人がいたわけではない。
むしろ、いい人ばかりだった。

では、明確に嫌なことがあったかというと、そういうわけでもない。

それなのに、徐々にストレスが溜まっていって、早くて2週間、遅くて1ヶ月で、軽度の鬱になる。

私の作品『イノシシのお残し』。イノシシが食べ残した鳥の羽で蝶をかたどった。

ならば、趣味に生きればいいじゃないか、とも思ったが、
私は趣味を持つこともできない。

今まで、裁縫や編み物にはまったことがある。

作りはじめると、がーっと進めていけるのだが、
やっている最中に、ふと「これって、何か意味があるのか?」と思ってしまう。

そこで、「ない」と感じると、プツンと糸が切れたように関心がなくなり、
材料・道具・資料もろとも全部捨ててしまう。

高校生のとき、このことをクラスメイトに話したら、「あなたは異常だ」と言われた。

「えびちゃん、趣味に意味は求めないんだよ」

そうなのか…
私は趣味をもつ才能もなかった。

『かもしかの執念』。ヒノキの葉っぱでキャンパスを埋め尽くした作品。

働くのもだめ、趣味も持てない。

そんな私が唯一、ぴったりはまったのは「アート」だった。

師匠について岐阜県恵那市飯地町にきてからというもの、365日、いっさい休みはない。

毎日、毎日、何かにずっと打ち込んでいる。

でも、不思議と自分のアート活動に腐心しているときは、正気でいられる。

私の作品。ニホンカモシカの糞で作った『うんこ花器』


若いうちに、自分の生きる道が見つかったのは、本当にありがたいことだと思う。

しかし、私はなかなか、ありがたい事実を受け入れられなかった。

アーティストは、修行僧みたいなもの。

師匠という素晴らしい指導者に恵まれていながら、この2年半の短い間で、ずいぶん大変な思いをした。

何もしていないのに、その場にいるだけで、
無視され、蔑まれ、言われたい放題なうえに、利用してこようとするひともいる。

それでも、生きなくてはいけない。

これを死ぬまでずっとやるのだ。

唯一残された道が、こんなに辛いものなのか…

それでも、一生懸命やっていると、分かってくれる人はいるらしい。

師匠は、ずっと私のことを信じてくれる。

師匠のほかにも、困っているときに助けてくれる人、応援してくれる人がいた。

どうせ、皆、私に興味ないでしょ。

私のことは、マックで頼んだら勝手についてくるハッピーセットのおもちゃみたいな、
師匠についてくる小娘くらいにしか思ってないんだ…と思っていた。

(※マックのことはけなしていません。ハッピーセット大好き。)

蔑まれるのが普通だと思っていたので、素直に自分に関心をもってくれる人はいないと思い込んでいた。

私の作品『ヒノキかも吾郎』

最近、ようやく、あれ?そうでもないのかも?と思い始めた。

もしかしたら、私を一人の人間として評価してくださる人もいるのか…?

そのことを師匠に話したら、「え?気づかなかったの?」と言われた。

そうなのか…
変な思い込みのせいで気がつけなかった。

私のことを応援してくれる人がいる…

そして、私には「アート」しかできることがない…

それなら、もう、やるしかない!!

どう言われてもいいし、どう思われてもいい。

どれだけ辛い思いをしても、アート活動が死ぬまで続けられるなら、なんだっていいと思えた。

だから、海外へ行くしかない。

師匠のご友人が海を隔てて、待ってくれているではないか。

師匠がかつてインドで展覧会をしたときの写真。師匠は左から2番目。

とうとう「道」を引き継ぐときがきた

ありがたいことに、たまたま師匠と縁の深い場所が、バリとインド。

特に、インドはこれから伸びしろのある国だ。

師匠いわく、新興国は、まずは経済が伸び、経済が伸びると文化を確立しようとする。

つまり、インドのアートマーケットは今、参入するのにベストタイミングだということ。

しかし、インドなんて、行くだけで命取りな国。

全く知り合いもいないなかで、インドと縁をつなぐなんて難しい。

だからこそ、師匠がインドと深いつながりがあるうえに、
ちょうど今、インドのご友人から連絡が来ているのは、「チャンス」としか言いようがない。

インドを訪れた師匠の一行。大変歓迎されたらしい。

今回の海外への展覧会は、「若い世代(私)に師匠がアートで培ってきた人脈を引き継ぐ」という大きな目的がある。

これは、私が師匠に出会ったときから、ずっとおっしゃっていることだ。

師匠が海外で活発にアート活動をしていたころ。

2004年、師匠がインド政府の国会議員を表彰するパーティーに参加した時、
インド人の国会議員から「日本は相手にしていない」と言われた。

「インドの人口は13億もいるけど、日本はたったの1億でしょ。だから、相手にする必要がないんだ。」

思えば、師匠の親は、団塊の世代。
団塊の世代は、ちょうど日本経済が登り調子だった時代のひとだちだ。

「日本はすごい国なんだ。メイド・イン・ジャパンと言えば、ブランドになるんだぞ。」

そう言われて育った師匠が、いざ海外にでたら、「日本は相手にしてない」と言われてしまった。


しかし、インド人の国会議員が言ったことは、正しい。

日本の人口は少なくなる一方だし、市場規模を小さくなっていくほかない。

2004年、パーティーに参加した師匠(右)

少子高齢化って、そんなにヤバいの?と思っていたが、
一昨年の夏、岐阜県恵那市飯地町にきて、その意味がよく分かった。


少子高齢化が進むと、今まで人力で成り立っていた、あらゆる社会活動、経済活動ができなくなっていく。


時代に合わせて自分たちが変わっていくしかないのだが、いざとなると、人はそれができないもの。
結局、何も変わらないまま、人がいなくなっていく…


これは、飯地町だけで起こっていることではない。
都会・田舎問わず、全国各地で少子高齢化の歪みがでている。


しかし、そんな状況でも、生まれてくる命はある。

このままほっとけば、これからの時代を担っていく人たちの可能性まで潰れてしまう。

そんなの、絶対だめ。

ニホンカモシカの親子

師匠は30年以上まえから、このことを察知していたのだと思う。

だからこそ、海外へ行って、未来を変えていかなくてはいけない。

師匠は「海外への縁を繋ぐには、アートは最も良い方法」だと言う。


アートの市場は広いだけでなく、意外とシステムがしっかりしている。

その上、アートはビジネスと違って、利害関係がない。
ビジネスでは入っていけない領域にも、アートは縁をつなぐことができる。


師匠は35年という歳月をかけて、今日まで「道」をつくってきてくれた。

35年…アートからしたら、長い年月だ。

師匠の血と汗と涙をながしながら育んできた「未来への道」を、絶やすわけにいかない。

私が「道」を引き継ぎ、さらに未来へと繋いでいかないといけない。

師匠が30年以上前にバリで見たダブルレインボー

自分だけの未来じゃない

私は今まで、自分のことしか考えていなかった。

というより、気を抜くと鬱っぽくなるので、自分の精神を壊さないようにするので精一杯だった。

ところが、自分の未来のために、ひたすら信じて走り続けていると、
私を信じてくれる人が一人、また一人と増えてきた。

もちろん、まずは自分のアート活動を確立していかなくてはいけない。

でも、自分が自分の未来のために行動し続けていると、
不思議とそれは自分だけの未来ではないことに気がつく。



そして、前途多難な世の中で、自分が「生き残っていく」ことを真剣に突き詰めていくと、

いつも、周りのひとの未来も尊重しなければいけないという真実にたどり着く。

バリの風景。撮影:師匠

どうしていつも同じ答えにたどり着くのだろう。


それは、きっと、心の奥底で切実に願っていることは、皆同じだからだと思う。

師匠の作品

アートは、祈りそのもの。

アート作品と一口に言っても、作家によって作風が違ったり、同じ作家でも、全然違う作風で作ったりする。

でも、作品を通して人が祈っていることは、きっと、同じはず。

どのみち、私にはアートしかできることはない。
応援してくれる人がいる。

未来がかかってるんだ。

だから、できることを最大限やっていかないと。

バリ、インド、ニューヨーク、何がなんでも行ってやる。

「道」を絶やすな。

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