葉っぱ

見えないもの、氣、エネルギー、宇宙が大好き♡です。 『現実は創造できる』を今世で経験し…

葉っぱ

見えないもの、氣、エネルギー、宇宙が大好き♡です。 『現実は創造できる』を今世で経験したいと思い、その過程での気づきを発信中。繊細さん。

最近の記事

ただ起きているだけ

急いでいる時に前に歩いている人の歩く速度が遅くて急ぎたいのに進めない時、 「早く歩いてよ〜、もう」「なんでそんな歩くの遅いのよ〜、こっちは急いでるのに〜」などと思考し、そこに感情が現れる。 苛立ちとか怒りとか。 遅くに仕事から帰ってきて、台所に食べた後の洗い物が溜まっているのを見て 「自分が食べたものぐらい洗ってよ」と息子に 怒りをぶつける。 分析してみると 仕事から帰ってくる(疲れた〜) ↓ 山盛りの洗い物を視覚する ↓ 自分で食べたものは自分で洗うのが当然との 思い込

    • マンパワーだけではないチカラの存在

      この一文に魅了されて前のめりに申し込んだ末吉さんの講座。そこで先着3名特典のコンサルを受けて 「パラレルを早く移行したいのなら、今の自分がちょっと恐いなと思うことを思い切ってやってみるという方法もある」というような言葉をいただき、 思い切って休みを増やしたのは昨年6月。 個人事業主なので当然休みを増やすと収入も減る。 その頃のわたしは自分が稼がないと!頑張らないと!と身を差し出してお客様に向き合ってた。 セラピストはそれが当然とさえ思い込んでいた。 ただ心身は疲弊しいつも「休

      • やるべきことがわかった

        3月が今日で終わる。 淡々とやるべきことをこなしていたのにもかかわらず、仕事で腰を痛めてしまった。 痛みをまだ俯瞰、観察できるまではよかった。 アーユルヴェーダのファスティングをし、欲望の強力さを実感しコントロールする難しさを痛感したり。食べることは、本来その料理を味わうもの だけれど、何かと向き合うことの恐れや不安から 一時的な快楽を求めては食べて満たされる、そういうことを無自覚に繰り返していることを知れた。 ただ痛みが俯瞰できないぐらいになってしまうと 思考も感情も欲も

        • すべてはあるという安堵感

          すべてはある、"ある"を意識をすると、あったかい部屋で過ごせているし、ご飯も食べることができるし、仕事もあるし、箇所箇所で痛みはあるけど 身体は動くし、自由に移動できるし、と既に全て "ある"ことに気づくことができた。 今までは、足りない!もっと!さらに!という 欠乏感でいっぱいで、だけどどれだけ頑張っても どれだけ働いても、どれだけ食べたい物食べても それらは一時的な満足感でしなく、それよりも 心身の疲労の方が酷くなっていた。 この世の真実を知り、それらを日常での気づき

        ただ起きているだけ

          本当のわたしと自我のわたし

          本当のわたしは、常に希望に溢れていて、なんの疑いもなく、自由な発想をしている。 好奇心旺盛で、なんでもやってみたい! 常にキャッキャとはしゃいでるイメージ。 自我のわたしは、その自由奔放な本当のわたしを いつもネガティブな思考で制限してくる。 怖さを感じさせてくる。 だけど、最近は、この二元の世界での経験をするにあたり、あまりにも本当のわたしは無鉄砲だから、危険な目に合わないようにセーブしてくれて、 人からの嫌な言動にも、必死に本当のわたしを 守ろうと頑張ってくれてたんだ

          本当のわたしと自我のわたし

          知識を知恵に変えていき発信していく2024

          年末年始の休暇終え、今日から日常が始まる。 2023年後半からはとにかく自己内省と手放しの日々だった。 そしてこの10年以上、「引き寄せの法則」 「潜在意識」「思考」と学び、日常に落とし込んではまた気づきを繰り返し、そして今は「インド哲学」「量子力学」と学び続けている。 2024年はそれら知識を知恵に変え、そして 自分の経験に基づくことを自分の言葉で発信していこうと思う。 それらが誰かの「気づき」になればとても嬉しい。 自分がここでたくさんの「気づき」をもらえたように

          知識を知恵に変えていき発信していく2024

          繋がりを感じて過ごしていると繋がりを感じることが降りてくる

          先週末からインド哲学の学びと社内の試験を兼ねて旅に出てきた。 日頃目の前のやるべきこと(やってもらやらなくてもいいのに、やらないといけないと思い込んで自分で囚われているんだけれど)に追われていた自分にはリトリートの旅となった。 今日常に戻りいつもの電車に乗った瞬間に いやだー、という抵抗が出てきた。 人の話し声、人の視線等々 そんな抵抗を感じつつも自分の内側に戻ろうとしつつ、のど飴を開けようとしていたら、ふと、 大阪のあめ文化を思い出した。 人とその瞬間繋がるという意味で

          繋がりを感じて過ごしていると繋がりを感じることが降りてくる

          宇宙に繋がる、ということは全体意識を信じる、 信じきるということなのかな。 ついつい目の前の現実やまだ見ぬ未来への不安の思考が働くけど、信じきるという感覚かやっぱり委ねる 委ねるというのは、降参するということだな

          宇宙に繋がる、ということは全体意識を信じる、 信じきるということなのかな。 ついつい目の前の現実やまだ見ぬ未来への不安の思考が働くけど、信じきるという感覚かやっぱり委ねる 委ねるというのは、降参するということだな

          今日は一日を通して思考に気づいてすぐに今に戻れた日だった。気づくことで穏やかに過ごせた。 思考とはどういうものかを知り、日常で肚落ちさせていくことで過ごし方生き方が変わってくる。それぐらい今までの自分の思考はとてもうるさかった。今もこれを打ちながら片隅で思考が発動しているけれど。

          今日は一日を通して思考に気づいてすぐに今に戻れた日だった。気づくことで穏やかに過ごせた。 思考とはどういうものかを知り、日常で肚落ちさせていくことで過ごし方生き方が変わってくる。それぐらい今までの自分の思考はとてもうるさかった。今もこれを打ちながら片隅で思考が発動しているけれど。

          過去も未来も存在しない

          わたしがずっと変わらずここにいることに気がついて、だけど油断したらすぐにその感覚が消えてしまいそうで、なので、心を落ち着かせる時間をより多く取るようになった よくこの現実は幻想である、と言われるけれど まだ自分はハッキリと腑に落ちた訳ではなくて だけど、過去も未来もなくて、あるのは自分の思考の中だけだったんだ ということはクッキリと分かってきた 今しか生きれない 分かってるようで分かってない 在るのはすべては今 そう、いまここ 分かってきたけど、これもすぐに隣で湧いてくる思考

          過去も未来も存在しない

          いつものわたしがここにいる

          コンフォートゾーンを抜けたものの、研修中前半はなんだか自分の中心がぐらぐらしぱなっしで、過去の記憶からの思考、ネガティブな思い込みにどっぷり引っ張られていた。 研修の総テストの前にこのぐらついている正体をじっくりみたくなった。 何をそんなに恐れているのか 何でそんなに自我が優位になるのか 何をそんなに怯えているのか とにかくここ数日間のもやもやするものを見つめ続け、肚の中に溜まってるものはひたすら書き出した いわゆる、ジャーナリング。 ひたすら書く、思いつくまま殴り書きで、

          いつものわたしがここにいる

          手放した今

          あんまりにも現実が動いて目まぐるしい日々だった ようやくこうやってnoteと向き合えた。 6月に末吉さんのリアルセミナーに参加し、 その前に湯河原のリトリートに行き、空気そのものが愛おしく、自分に繋がるとはこういうことなのか、と体感し、同時に今まで何者かになるために鼓舞して闘って生きる生き方を手放してきた。 これらの行動はワタシにとっては、とてもとても勇気と覚悟が必要だった。 勇気と覚悟の旅を経て数週間経ち、いつもと変わらず日常を送る中で、仕事で身体を痛めてしまった。

          手放した今

          自我の私は早くやれよ、さっさとやることやれよと急かして煽ってくるけど、本当のわたしは休みたくて仕方がない

          自我の私は早くやれよ、さっさとやることやれよと急かして煽ってくるけど、本当のわたしは休みたくて仕方がない

          モヤモヤ、違和感の突破口

          久しぶりに投稿したくなった気づきがありました。 最近は、いや、最近も「手放し」をしていて、だけど、してもしても長年積もった思考癖や反応癖はなかなかゼロにはならず、だけど確実に以前よりは小さくなってきていると思っている。 今日もモヤモヤ、違和感が出てきて、 その時に、「そこじゃないよ、意識を向けるの、そこじゃない、貴方はそこの人じゃない」と 必死に訴えているわたしを感じた。 モヤモヤ、違和感が出てきた時は そして、自分としては 「自我を切り離す」イメージ。 それらを感じ

          モヤモヤ、違和感の突破口

          ざらさらの正体

          ここのところ、ざらざらとしたものを感じては、その奥底にある自分の中の恐れ、不安、怒りを見ようとノートに書き出したりして内側を観ることをやっている。 一つ目のざらざらでは、他人の言動の違和感から始まり、それが怒りに変わり、それが感情となってモヤモヤ、イライラする。 いつもなら食べたり呑んだりしてその感情から逃れようとしていたけれど、今回はとことこん掘り下げてみようとなぜか思った。 もう、そういうサイクルから抜け出したい、変わりたいと強く願ったからかもしれない。 ノートにその時の

          ざらさらの正体

          ざらざらとした違和感も追い出そうとするのではなく、感じ切るように意識すると、今何も起こってないし、全ては最善の出来事と思えてくる

          ざらざらとした違和感も追い出そうとするのではなく、感じ切るように意識すると、今何も起こってないし、全ては最善の出来事と思えてくる