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映画日記 『ある男』誰になりすましたって結局死ぬときは、自分でしかない



ネットフリックスで『ある男』を見た。


(※能書き 文章をあらかた書いてから、無理やり目次を作ったので、内容と一致していません。が、目次なり章立てをしてから、本文を書いた方が、わかりやすい文章になるような、気がしてきました。)


マグリットの絵画



この映画の最初と最後に、絵画が登場する。多分、マグリットだと思う。木を見て森を見ない私は、最初に、この絵が気になってしまった。

やってはいけないことだが、画像を静止させて、その絵画を見てしまった。映画館では絶対に出来ないことだが、ネットフリックスだから、そういうことも出来るのだ。

どっかの壁に額縁に入った絵が飾られている。そこには、人の後ろ姿が二つ見える。手前に男の上半身の後ろ姿が描かれている。その右横に、ほとんど同じ男の後ろ姿が描かれている。

2人の間には、窓枠のようなものがあって、家の中と窓枠越しの外に、同じ格好をした男が、二人、前後にすこしズレて立っているように見える。

でも、よく見ると、窓枠に見えるのは、大きな鏡かもしれない。手前の男と、奥の男の間には鏡らしきものがあって、奥の男は、鏡に映った手前の男のようにとらえればいいのかもしれない。

つまり、手前に、背中を向けている男がいて、その男の前には大きな鏡があり、そこに男も写っているのだ。普通ならそれは男の顔がわかる正面の像になるはずだが、鏡に映っているのは、背中なのだ。

だから、手前にある男の後ろ姿と同じものが鏡に映っていることになる。それが見ているこちらに、すんなり頭に入らないのは、手前の男と鏡の角度がズレているからだ。

後ろ姿であることに加えて、絵画を見ている私の視線から、鏡の中に映るだろう男の位置とは、ズレた、あり得ない位置に鏡の中の人物が描かれているから、余計に混乱して居心地の悪い思いをするのだ。

この絵画が、映画の最初と最後に出てくる。何かを象徴しているのだろう。

でも、本当にマグリットだろうか?

映画を見終わった後に、ネットで検索したら、簡単に見つかった。やはりマグリットの絵画だった。タイトルは、「不許複製 / Not To Be Reproduced エドワード・ジェームズの肖像」となっている。

この映画では、戸籍の売買が大きなカギになっているから、「エドワード・ジェームズ」ではなく、「不許複製」の方に意味が込められているのだろう。


人生をやり直す方法


この映画は、戸籍を交換して他人になりすます男がいて、それに接して困った人が、なりすました人がなりすます前は誰だったのかを探る、というハナシだった。

なりすまされた人も、誰かになりすましている筈だったが、そっちはあんまり描いていない。

しかし、人はどういう事情があれば、他人になりたがるのか、あるいは他人になりすますのか、ということは掘り下げてあった。

この映画を見ていたら、人生をやり直すには、戸籍を交換することが、とてもいい方法のように思えた。しかし、私は現実的に、他人になるには、なかなかハードルが高くて、簡単には出来ないなと思った。

在日三世のアイデンティティと戸籍交換者のアイデンティティ



主人公の一人は、妻夫木聡演じる弁護士だ。彼は在日三世だ。日本名に改名してキド(城戸か木戸)と名乗っている。

妻の父は、在日に批判的なことを、悪気なく平気で口にする、普通の日本人だ。妻の母親は、在日三世ならもう日本人よねと平気で言う、普通の日本人だ。真木よう子演じる妻は、どうやら浮気をしているようだし、夫に、仕事を家庭に持ち込むなと平気で言える強い立場を家庭の中で持っている。

この映画の中には、彼の在日の家族は一人も出てこない。

キドは弁護士だから、なりすました人物の素性を探る仕事をする。

彼が情報収集のために訪れた刑務所で面会した柄本明演じる囚人は、戸籍の売買をして捕まった男だった。彼のことを一目見て、在日朝鮮人だと見抜く。理由はわからない。

指摘された彼は少し感情的なる。

この映画の全体を通して、床下に、古びて簡単に発火しそうなガス管が通っているような感じで、在日への問いかけがあった。

連れ合いを失った妻と義父を失った息子と死んでいなくなった男とその三人の絆


主人公のもう一人は、安藤サクラ演じる女性だ。離婚して、子供をつれて、都会から田舎の実家に戻り、家業の文房具屋を引き継いで暮らしている。しかし、息子以外に、実家の家族は、ほぼ出てこない。

その文房具店に、絵を描く道具を求めてやってきたのが、窪田正孝演じる男だ。男はよその土地から移住してきて、林業の職に就いている。2人は恋愛をして結婚する。新しく女の子も生まれる。男の子も、新しいお父さんになついている。

一家の暮らしは、4年ほど続くが、ある日、夫が山で事故死してしまう。葬式が営まれ、それまで疎遠だった夫の兄がやって来る。しかし、遺影の男は、自分の弟ではないと言う。

安藤サクラ演じる妻に、4年間一緒に過ごした男は誰だったのか、という謎が突きつけられる。

その謎を解くのが、妻夫木演じる弁護士だ。


ゆっくりとした映画には考える時間がある


映画はゆっくりと流れる。ゆっくりだから、観ているほうも、しっかりと受けとめ、じっくりと考えられる。

この映画の舞台になっている山間の集落の風景は、とても美しい。登場人物たちは、ぼそぼそとコトバ数が少ないけれど、無駄なことは言わない。特に安藤サクラ演じる母と息子のつながりは、しっかりと強く、しかし、男の子は既に独立した少年になっている。

けなげさとたくましさが少年の中にあって、見ている私は、感動というほかに表現できない感情がこみ上げてくる。

映画の終盤、窪田演じる死んだ夫の素性が明らかになった後でも、妻は取り乱しはしないし、少年は亡くなった義父をおとうさんと呼んで慕っている。

最後に、マグリットの絵画がまた出てくる。戸籍なんかの書類は、いくらでも複製できるけど、その人間そのものは、複製できないのだ。死ぬのは結局、その人で、死ぬのは誰でもない自分なのだ、と思った。

家族、夫婦、親子、民族、国籍、肩書き、人の存在ってなんだと、いろんなことを、しっとりと問いかけてくる映画だ。

2022年の11月に劇場公開された映画だ。監督は、石川慶という人で、原作は平野啓一郎の同名小説だ。

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