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銀座で世界文化遺産・三内丸山遺跡に触れてきました! @東急プラザ

銀座に行く用事があったので、そのついでに縄文時代の土偶や土器を見てきました。まさか銀座で縄文文化に触れられるとは思ってもいませんでした。

それが可能になったのは、銀座の東急プラザで「縄文デイズ JOMON DAYS」が開催されているからです(東京都中央区銀座5丁目2-1)。期間は10月1日~令和52023年1月9日まで。入場料は、中学生以上の大人は 700円、小学生は300円、無就学児は無料です。

■三内丸山遺跡の概要

三内丸山遺跡さんないまるやまいせきは、青森県青森市大字三内字丸山にある、縄文時代前期中頃から中期末葉(約5900-4200年前)の大規模集落跡です。「北海道・北東北の縄文遺跡群」として世界文化遺産に登録されています。

新青森駅(新幹線)からは車で5分、青森駅(在来線)からはバスで30分ほど(Googleマップ)
遺跡の全景(展示パネルより)

一度は青森などの遺跡も訪ねてみたいのですが、家族の合意を得なきゃいけなかったりと、なかなかハードルが高いのが現実です。そこでまずは、今回のような東京サテライト博物館のようなものを展開してもらえるのは、ありがたいことです。

住居や倉庫など、様々な建物が復元されています(展示パネルより)

「縄文デイズ JOMON DAYS」では、 三内丸山遺跡の出土品が少しだけ展示されています。また、 縄文を体験できるVRコーナーや、縄文に関する講演イベントが予定されています。12月17日には、三内丸山遺跡センター所長の岡田 康博さんの講演があるようです。

以下、「縄文デイズ JOMON DAYS」で見てきた土偶や土器などを紹介していきます。

土偶どぐう岩偶がんぐう

三内丸山遺跡は大規模集落跡ということもあり、そのウリの一つは、大量の土偶が出土したことです。その数、3,000点以上だと言います。

ただし、少しがっかりなのが、展示されている土偶や岩偶の多くが「複製品」だということ。本物だと輸送コストが多くかかるなどの事情があるのでしょうね。複製品でもいいんだけど……がんばって、全て本物を持ってきてほしかったな……という気持ちを払拭できないでいます(笑) (国宝だったり、物が大きいものに関しては模写や模本、模型でも納得できるのですが、土偶などは小さいですからね…)

『大型板状ばんじょう土偶どぐう(複製)』縄文時代中期 約5,300〜4,200年前
『大型板状ばんじょう土偶どぐう(複製)』縄文時代中期 約5,300〜4,200年前
『大型板状ばんじょう土偶どぐう(複製)』縄文時代中期 約5,300〜4,200年前
土偶たち。板状の土偶が多い遺跡なのですかね
土偶の表情がそれぞれおもしろいです
それほど大きな土偶ではないのに、しっかりと鼻孔が表現されていますね
「あ!」と、驚いているような表情の土偶
なんとなく猿っぽい? ような土偶ですね
『土偶』縄文時代中期(複製)』縄文時代中期 約5,300〜4,200年前
岩偶がんぐう(複製)』縄文時代中期 約5,300〜4,200年前

■土器

土偶については、複製品が多いのですが、土器は本物ばかりです。土器底部が細くなった、縄文や弥生では珍しくない、コップのような形状が多かったです。

なぜ土器底部が細くなっているのかといえば、下から火を付けたときに熱効率が良い……というのが一般的な解釈のようです。ただし、調理後に料理を分けたりするのには、面倒な形ですよね。調理後は土器そのものを抱えるように持って、完成した料理を別の器に注ぎ入れるような使いかただったんでしょうか。

焚き火の上にドスンと置くのには、ふさわしくない形ですよね。大きな専用のかまどがあって、上から土器をはめ込むようになっていたのかもしれません。

円筒状葬式土器えんとうじょうそうしきどき』縄文時代中期 約5,300〜4,200年前

こちらは盛り皿でしょうか。高台のある縁の深い角皿といった感じです。念入りに意匠が施されているので、祭祀または記念日などに使われる、特別の皿のような気もします。

『円筒状葬式土器』

こちらも大きな土器です。採れた大量の木の実を煮るなどに使われていたのでしょうか。

■そのほか

三内丸山遺跡からは、北海道十勝や白滝、秋田県男鹿、山形県月山、新潟県佐渡、長野県霧ケ峰産などの黒曜石が出土しています。この黒曜石については、例えば長野県産の黒曜石で作られた加工品が、日本列島全体で幅広く出土しているのは有名ですよね。三内丸山遺跡でも同様に、各地産の黒曜石が発掘されているようです。

翡翠ひすいも同様に、新潟県糸魚川周辺で採れたものが三内丸山遺跡で見つかっています。そこから分かるのは、縄文人は交易を行なっていたということです。また、移動手段も備えていたということ。中世の近江商人のように、歩いて移動したのかもしれませんが、遠くへ行くのにはやはり船を使っていたんでしょうね。縄文の頃の海岸線に近い場所に、縄文の遺跡が多数発見されているのは、海の幸を求めたということと、交易がしやすいということがあったのでしょう。

翡翠ひすい製玉』

出土した現地の縄文時遊館でのように、もう少し魅力的に見えるように展示してほしかったなぁという、率直な感想です。

縄文時遊館での翡翠の展示。(Wikipediaより aomorikumaが撮影

土器を見ていると、松尾芭蕉のように全国を歩きながら、その土地土地の粘土をこねて土器や土偶を作っていくような、職人がいたんじゃないかな。各地域の土器を見たわけではないけれど、地域ごとの土器の特性が見えづらい気がします。例えば新発見の土器があったとして、専門家がパッと見て「あぁこれは三内丸山遺跡のものだな」とか「これは宮城県あたりの土器ですね」などと分かるものなんでしょうか。

また、黒曜石製の鏃などを見ていると、日本のどこかに工房のようなものがあったんじゃないかと思うことがあります。例えば長野県の蓼科あたりは、黒曜石の産地として知られています。その近くに、鏃工房などがあって、せっせと加工品を作っていた……かも。そして今の静岡県富士市あたりに持っていき、そこから船で各地に輸出していた……かも。

縄文時代の舟(江戸東京博物館にて)
縄文時代の舟(江戸東京博物館にて)

おそらく現代人が考える以上に、縄文時代の人たちは、川や海を自由に移動して、幅広く交流していたんでしょうね。そもそも今の中国大陸、朝鮮半島、フィリピンの方からも、渡ってきた人たちがいると考えられているのですから、現在の長野県から青森県を移動するくらいは、難しいことではなかったような気もします。

もちろん、海を移動する場合には、上の写真よりももっと頑丈な舟を使っていたでしょうね。

■「縄文デイズ JOMON DAYS」に行った感想

銀座や有楽町といえば、地方の自治体がアンテナショップを構える場所として知られています。そんな場所に、今回は、三内丸山遺跡を紹介する「縄文デイズ JOMON DAYS」が開催されています。

見てきて感じたのは、なにかのついでに行くのにはちょうどいいなと思いました。例えば家族が銀座に用事があるから、一緒に行って、自分だけ「縄文デイズ JOMON DAYS」を見に行くとかなどが考えられます。見終わったら、ランチだけは家族と共にするといったイメージです。

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