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浮世絵の祖・菱川師宣の“工房”で描かれた上野の花見

先週は子供がインフルエンザに罹ったことから始まり、グアムへの出張をはさんで、週末には千葉県・館山を旅行するという……なかなかに気ぜわしい一週間となりました。その館山を、年に1度くらい訪れているのですが……行く途中には、江戸時代の絵師で《見返り美人》でよく知られる、菱川師宣(ひしかわ もろのぶ)さんの生地があります。

「房陽」とは生地の「安房」のこと
「友竹」は菱川師宣の画号
最後は「筆」でしょうか
この下に思いっきりピンク線を載せてしまいましたが瓢箪形の落款印があります

途中で立ち寄った道の駅で、菱川師宣記念館のパンフレットを見ながら……先日、東京国立博物館(トーハク)で観た《浮世人物図巻 上巻》について考えてみました。※まぎらわしい書き方ですが、菱川師宣記念館へは今回も行っていません

《浮世人物図巻 上巻》

菱川師宣は、安房国の平北郡保田村(現・千葉県鋸南町保田)に、縫師の家に生まれました。生年は不明ですが、1618年前後……江戸時代の初期のことだといいます。ちなみに普段使われていた名前は吉兵衛さん。

安房国の平北郡保田村(現・鋸南町)は、チーバくんで言うと、青星のあたりです
全く関係ありませんが、源頼朝が石橋山の合戦で敗れた時に伊豆から船で逃げ、上陸した場所と言われている場所がすぐ近くにあります

《浮世人物図巻 上巻》の解説パネルによれば、「(菱川師宣は)版本挿絵から一枚摺りの版画を独立させ、浮世絵の祖とも称されます。《よしはらのてい》はその代表作。肉筆画も数多く描きました」とあります。

《よしはらのてい
画像はTNMより

そして今回展示されている《浮世人物図巻 上巻》は肉筆画で、菱川師宣の落款らっかんが捺してあります。ただし、必ずしも本人が描いたものとは思われていないようで、解説パネルでは「菱川師宣自身ではなく工房で製作されたと考えられています」とのことです。

《浮世人物図巻 上巻》

菱川師宣が描いたものではないとしても、菱川師宣“風”の描き方ですね。

この図巻、解説パネルによれば「花見に訪れた一行が黒門から入っていく場面に始まる」とあります。江戸時代の黒門といえば、上野の東叡山寛永寺の、上野広小路方面からの出入口にある門です。有名なのは、幕末におきた上野戦争の黒門における戦い。薩長などの西軍(倒幕軍)から、激しく銃撃された場所で、現在は台東区に隣接する荒川区の円通寺に移設されています。

銃弾の跡が残る、荒川区の円通寺に移設された黒門

現在に残る黒門を知っているので、解説文を読んで感じたのは「黒門なんて、どこに描かれているの?」ということでした。結論としては、どうやら菱川師宣の頃……江戸初期の黒門は、その姿が大きく異なるようです。

これは黒門ではないでしょう……と思うのですが、作品と解説を照らし合わせると、下の写真の門が“黒門”のようです。黒くない……。考えられるのは、幕末に“黒門”と呼ばれていた門のある場所に、江戸初期のかつては菱川師宣が描いたような立派な門があったということ……なのですかね……。

まぁとにかく黒門をくぐれば、そこは、比叡山延暦寺を見立てて作られた、東の叡山こと、東叡山寛永寺の境内です。京都の清水寺を真似て作られた清水院や、京都の大仏を真似たのか、像高6.6mの大仏もこの絵が描かれた頃には、既にあったはずです。もちろん上野の山の下には琵琶湖に見立てた不忍池しのばずのいけもありました。東叡山寛永寺は江戸時代の初期から、面白いものを「全部もってこい!」的に真似て作った、遊園地のようなエンターテインメントの一大拠点だったんでしょうね。

で、今はその多くがソメイヨシノのように思われますが、当時はソメイヨシノはありません。東京藝大の「藝大アートプラザ」のWebマガジンによれば、「(江戸時代に)桜の名所として古くから知られる奈良の吉野山からわざわざ苗木を取り寄せて、境内に植えられたのがはじまりといわれています」としています。

そして江戸で一番の桜の名所と言われるようになり、今と変わらず、桜の季節には多くの人が上野の山に花見をしに来ていたようです。

様々なお偉いさんたちが、外から見えないように幕を張って、場所取りをしていたようです。それにしても、幕に記された家紋が、見たことのないものばかりです。なんかおしゃれな紋章ですよね。下の家紋などは、14か15葉の菊ですけど、まさか皇族ではないですよね。

ケータリングしている様子も描かれていますが……魚をここで切るってすごいですね。刺し身にでもするんでしょうか。それを見つめる扇子を持った坊主頭は、心配そうに魚をさばく様子を見ています。「もう少し早くさばけんものかのぉ…まったく」と苛ついているようにも見受けられます。

下の写真の、女の子を肩に載せた男性を中心とした一段は、なんでしょう。主人は刀を一本だけ腰に指していますが、これは町人なのでしょうか。その隣を頬かむりしている女性は、ずいぶんとダボッとした服の着方をしています。流行りだったのでしょうか。

画面左上の方には、お茶を出している人もいます。もしや煎茶の中興の祖、売茶翁か!?……と思いたかったのですが、売茶翁こと黄檗宗の月海さんが生きたのは1675年〜1763年。売茶翁としての活動は61〜81歳なので、可能性として無いわけではない……といったところでしょうか。ただし、伊藤若冲が描いた姿とは、だいぶん異なりますね。

ということで、売茶翁もどきの人を通り過ぎて先を急ぎます。するとお堂が見えて来るのですが……今の上野の山に照らしてみても、どこらへんなのかは、さっぱり想像できません。

下の写真には、全く同じ2つの建物が並んでいます。こんな建物が東叡山寛永寺にあったのかといえば、法華堂と常行堂がありました。ただし、この2つの建物は渡り廊下で連結していました。そのため、下の絵が、法華堂と常行堂じょうぎょうどうを描いたものなのかは不明です。ちなみに渡り廊下で連結させた法華堂と常行堂じょうぎょうどうは、日光にもあります。ただし上野の場合は、渡り廊下の下をくぐれる設計になっていたのに対して、日光のは渡り廊下が地面に直に建てられています。

絵巻の最後、左端には「師宣図」とあり、菱川師宣の落款がうっすらと残っています。この文字なのかハンコなのかが、菱川師宣の真筆とされるものと異なるのでしょうね。ということで「伝 菱川師宣」とされ、菱川師宣の工房で描かれたものだろうと推定されているようです。

この《浮世人物図巻 上巻》は、外国人に熱心に見入っている人が多かったような気がします。

解説パネルには「浅草周辺の舟遊びを描いた下巻とで1対をなしています」ともあります。下巻については、まだ見たことがないような……あったような……。展示されるのを楽しみに待ちたいと思います。

《浮世人物図巻 下巻》画像はTNMより

<参考文献(今回は参考にしていませんけど……)>

東叡山絵図地割(設計図のよう)

全く関係ないのですが、寛永寺の一坊が所蔵していた「鳥羽僧正画巻」↓ なんだこれは! という感じの絵巻なので、機会を作って調べたいと思います。

『[鳥羽僧正画巻]』,寛政6 [1794] 寫. 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/2542707

【関連note】

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