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国宝……よりも見られて良かった、横山大観や下村観山の仏画 −仏画のなかの“やまと絵”山水−

東京国立博物館(トーハク)の本館2階(2室)……通称「国宝室」の展示品が変わりました。今回はトーハク所蔵の《十六羅漢像(第六尊者)》……なのですが……作品の損傷が激しいのと、もともと国宝室の照明が暗いのと、映り込みが激しいガラスのため(ケースのガラス素材とケースの配置位置のため)、作品自体に何が描かれているのか、ほとんど見られませんw


■今後が心配になるほどボロボロだった国宝《十六羅漢(第六尊者)》

この部屋については、正直、いろいろと考え直した方が良いような気がしてしまいます。

思うに、こんなにボロッボロの状態の国宝は、展示すべきではないのではないかなぁと。このまま数年に一度、展示していくと、あと100年くらいで、さらに目も当てられない状態になってしまわないか心配です。

↑ 色み調整に失敗して、どぎつい赤色になってしまいました……

さて、この《十六羅漢像(第六尊者)》は、滋賀……近江の聖衆しょうじゅ来迎寺らいごうじに伝来した、現存最古の「十六羅漢」が描かれた一幅なのだそう。だから国宝なんでしょうね。

ところで「十六羅漢らかん」って、よく聞きますが、いったい何者なんだろう? と思っていましたが、今回は解説パネルに「羅漢は、仏教を開いた釈迦の教えを守り伝える聖者」なのだと記されていました。

あの孫悟空などと旅に出て、たしか般若心経を支那に持ち帰った三蔵法師(玄奘げんじょうが、中国語…漢語に訳した、『大阿羅漢だいあらかん難提なんだい蜜多羅みったら所説しょせつ法住記ほうじょうき』という書に、16の羅漢それぞれの名前や住む所が記されているそうです。そして後世に、この三蔵法師が訳した文書からインスピレーションを受けて、十六羅漢を絵にしたり像にしたりしてきたようです。

で、その住所と名前は、絵の右上に貼られている白い紙に記されています。わたしはもちろん読めませんが、住所が「耽沒羅州たんもらしゅう」で、名前が「跋陀羅ばだら尊者そんじゃ」と記されています。

さらに解説には、「明るい色調で整えられえた優美な彩色」や「柔らか輪郭線が生み出す穏やかな雰囲気」さらに「色紙形も地の部分には花鳥の文様が繊細に描かれ、どこを見ても11世紀の貴族たちの美意識が感じられる」としているのですが……こんな展示室と展示ケースでは全く感じられません! とツッコミたいところです。

そして次の部屋へ行くと、国宝室のものと同じシリーズの《十六羅漢像》……第十五尊者がいました。こちらは剥落エリアも少なく、羅漢の表情もよく見られます。同じ平安時代に描かれ、おそらく同じ環境で保存されてきたのに、これだけ状態が異なるのが不思議です。先ほどの第六尊者の方が人気で、使われる機会が多かったんでしょうか。

《十六羅漢像(第十五尊者)》

■横山大観が描いた仏画《山越阿弥陀図》

そして、その並びに展示されていたのが、《山越阿弥陀図 (模本)》です。描いたのは……と言っても模写したものですが……横山大観さん。もともと平安時代・12世紀に描かれ、京都の禅林寺が所蔵している国宝の《山越阿弥陀図 》を、明治28年(1895)に模写したものだそうです。

その国宝の原本は、トーハクに寄託されていて、時々展示されているようですけれど……国宝《十六羅漢》と同様に、時々展示されるようで、直近だと2019年にトーハクの国宝室でも展示されています。わたしも、その時に一度は見ている可能性が高いです。

けど、横山大観さんの、こんな模本があるならば、原本にお出ましいただくことは無いんじゃないかな……なんて思ってしまいます。

絵の構図に関しては、阿弥陀三尊菩薩像ですよね。正面の山並みの向こう側から阿弥陀さんがニュルッと半身を出して、観覧者から見て右側に、死者の霊を載せる蓮台を持った観音菩薩、左側には合掌する勢至菩薩が描かれています。

観音菩薩
勢至菩薩

絵の一番下に描かれている2人は誰でしょうか……。

■下村観山が描いた《阿弥陀聖衆来迎図》

横山大観《山越阿弥陀図 (模本)》の隣には、下村観山などが描いた《阿弥陀聖衆しょうじゅ|来迎図 (模本)》が展示されています。こちらは、阿弥陀如来&観音・勢至菩薩のトリオだけでなく、様々な菩薩が描かれていて、とても賑やかで楽しそうです。

《阿弥陀聖衆来迎図 (模本)》下村観山、本多天城、溝口禎次郎模・明治29年(1896)
原本 : 平安時代・12世紀 紙本着色
原本 有志八幡講十八箇院所蔵

ちなみに製作年には、下村観山と溝口禎次郎が23〜24歳で、本多天城が29歳でした。

下村観山は、狩野芳崖や橋本雅邦に師事した後に、東京美術学校の第一期生となり、卒業後には同校で教鞭をとります。岡倉天心が失脚と同時に、横山大観らとともに日本美術院の創設に参加しました。そう聞いてから、この《阿弥陀聖衆来迎図》を見ると、どこを描いたのかは分かりませんが、なるほどなと思います。

少し歳の離れた本多天城は、狩野芳崖に就いて日本画を習得し、芳崖門下の四天王と言われました。その後は、岡倉天心の住まいに書生していた一人だったと言います。芳崖没後には東京美術学校に第一期で入学とあるので、下村観山とは同じ芳崖門下であり東京美術学校の同期ということになりますね。

一方で、溝口禎次郎も東京美術学校第一期生でしたが、卒業後には大阪府の中学校の教師に就いた後に、博物館……現・トーハク……の職員となりました。その後の明治29年に……つまりは《阿弥陀聖衆しょうじゅ来迎図 (模本)》を制作した年に……臨時全国宝物取調局臨時鑑査掛を嘱託されたようです。今回の阿弥陀|聖衆《しょうじゅ来迎図 (模本)》の他にも、京都・醍醐寺の不動明王像や、《花下遊楽図屏風(抜写)》などがトーハクに残っていますが……前2名と比べるとどうなんでしょう……。描くよりも、学芸員として優秀だったような雰囲気がありますね……推測です。

《阿弥陀聖衆しょうじゅ|来迎図 (模本)》は、3人が、どう分担して模写していったのか分かりませんが、とても素晴らしいなと思いました。もちろんわたしが「下村観山」を知っているから高評価してしまう……というのは多分にあると思います。

でも、それで良いんじゃないかなって思います。「あの下村観山が!」とか「あの横山大観が!」描いた仏画なんだぞ! と言われたら、それだけで拝んでしまいそうになります。

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