シルクロードの歴史10『イスラムとシルクロード-前編-』
1. イスラム教とシルクロードと遊牧民
シルクロードは文化や宗教の交流を行わせた事や、中央アジアの遊牧民であるソグド人などがシルクロードにおいて大きな役割を果たした事は先ほど言った通りで、これにより中国ではシリアのネストリウス派キリスト教、イランのマニ教やゾロアスター教、アラビアのイスラム教、インドの仏教などがそれぞれ盛んで、特に現在でも仏教とイスラム教の信者は多い。
また、複雑なシステムで動いており人口も多いため文化も発展した大国同士の交流はその間の遊牧民達にも大きな影響を与え、遊牧民たちは多くの国を建国しており、遊牧民が建国した国として東アジアでは匈奴、鮮卑、突厥、回鶻、モンゴル、五胡十六国時代の国々や南北朝時代の北朝側の国々、遼、金、西夏、吐蕃などがある。
その他、中央アジア・西アジア・南アジアではマッサゲタイ、烏孫、月氏ことクシャーナ朝、悦般ことエフタル、奄蔡ことアラン、カルルク、オグズ、西遼ことカラキタイ、カラハン朝、セルジューク朝、ガズナ朝、ホラズム朝、マムルーク朝、デリー・スルターン朝、堅昆、ファーティマ朝、アイユーブ朝など、ヨーロッパではフン、アヴァール、ブルガリア、ハザール、ペチェネグ、キプチャク、ハンガリーなどがあった。
また、モンゴル帝国が崩壊した後にはクリミア・ハン国やシビル・ハン国のような、〇〇ハン国という名前の遊牧国家が多く誕生している。
そんなモンゴル系国家のその中からはオスマン帝国、ティムール朝、ムガル帝国、黒羊朝、白羊朝、サファヴィー朝、アフシャール朝などの巨大国家も誕生、また、このようなモンゴル帝国の後に栄えた遊牧国家や中央アジア・西アジア・南アジアで栄えた遊牧国家の多くは、イスラム教を信じるイスラム王朝であった。
2. イスラム教勢力の登場
そもそも、イスラム教とは、7世紀、ヒジャーズ地方のムハンマドという人物が広めた思想で、ムハンマドは信者達の指導者となり、敵対勢力のメッカやユダヤ教徒などとそれまでのアラビアの砂漠では考えられないほど大規模な戦争を行い、これに勝利した。
その後、イスラム教はアラビアに急速に普及し、アラビアはイスラム教の共同体ウンマとして、統一された状態となることとなり、歴史上、アラビア半島が統一されたのは初めてのことでもあった。
その後、ムハンマドが死亡すると後継者にアブー・バクルが指名され、これに反抗する勢力をアブーバクルが片端から鎮圧した結果、アラビア半島はムハンマドの後継者カリフによる帝国となった。
アブー・バクルの後のウマルはビザンツとの戦争で疲弊していた超大国サーサーン朝ペルシアとビザンツの影響下に入っていたガッサーン朝を滅ぼし併合、さらにビザンツ領のエジプトやシリアも制圧し、オマーンの港からインド洋沿岸のムンバイなどを襲撃するなど、海でも勢力を伸ばし、イスラム帝国は超大国の仲間入りを果たした。
その後のウスマーンは軍備を整えて、ビザンツに勝利し東地中海の制海権を抑えるなどしたが、反感を買い暗殺され、アリーがカリフとなると、暗殺されたウスマーンの親戚のムアーウィアがこれに反発してカリフを名乗るが、結局は講和、しかし、この講和に反発した勢力(ハリワージュ派)によりアリーは殺され、結局、カリフを名乗っていただけのはずだったムアーウィアがカリフになった。
イスラム帝国は今まで、優秀な人物が選出されるという感じで決められていたが、ムアーウィアは自分の子孫達にカリフを継がせ、ムアーウィアの一族は王家としてイスラム帝国に君臨、ウマイヤ王朝の時代となり、この一つの一族による支配を受け入れた人々はスンニ派、受け入れなかった人々がシーア派と呼ばれることとなる。
ウマイヤ朝の時代にはまず、ダマスカスという現在シリアの首都となっている都市を首都に定め、中東の経済の中心はサーサーン朝ペルシアの首都だったクテシフォンからダマスカスへ移り、ダマスカスはシルクロード貿易によって大いに栄えた。
その一方、ビザンツの首都コンスタンティノープルを包囲するが撃退、しかしその後にビザンツが統治していた北アフリカのほぼ全域を占領、そのままスペインあたりの西ゴート王国を滅ぼしてフランクとトゥール・ポワティエ間の戦いで衝突し敗北し、イベリア半島を占領した所でヨーロッパ侵略は頓挫、又、この頃には反乱も続出しイスラム帝国が弱っていくこととなる。
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