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短編小説 逢魔の子

小さい頃、僕は弱虫だった。
記憶の中の僕は、いつだって母の胸に顔をうずめている。
僕は泣いていて、何かに怯えている。でも、いったい何に怯えていたのかは覚えていない。
いや、本当は思い出したくないのかもしれない。
でも、そんなときに必ず母が言っていたあの言葉だけは、今もはっきり覚えている。
「アンマークートゥ、アンマークートゥ、おかあさんのことだけ見ておきなさい、おかあさんが、すぐにいなくするからね」
母がそんなことを言ったのは、きっと何かがいたからだ。
幼い僕の、その後ろに。


部活を終えた僕が誰もいない教室に戻ったのは、夕方と言うにはもう遅い時刻だった。
薄暗い真夏の教室は、まだムッとする空気を溜め込んでいる。
「ちょっと、そこの君」
そこの君、と声を掛けられても、即座に自分のことだと思う人はいない。
大方の人は、呼ばれたのが自分だとは、あえて思わないようにするだろう。
僕もそういう大方の一人だ。教室には僕ひとりしかいないのだが。
「君、君だよ」
その声が、もう一度教室に響いた。
大きな声ではないが、太くてよく通る声。
「驚かせたようだね、申し訳ない。ちょっと君と話がしたくてね」
少し驚いている僕の心を見透かしたように話し掛けてきたのは、剣道部の監督をしている安座真さんだった。
安座真さんには体育館でも時々会うことがある。でも先生ではないから、普段は別に仕事をしているんだろう。
僕の通う学校はスポ-ツの有名校だが、中でも剣道部は強い。毎年のように全国大会に出ているし、全国制覇も一度や二度ではなかったはずだ。
そんな部の監督なのだから、安座真さんの指導はもちろん厳しい。だけどこの人は、剣道部の連中にとても慕われているようだ。本当に優秀な指導者っていうのは、きっとこういう人なんだろう。
でも剣道部の監督が僕になんの用がある?
安座真さんは沖縄出身らしい。
僕もそうだ。小さい頃は沖縄に住んでいた。
でもそれが僕を呼び止める理由だとはとても思えない。
思わぬことに、僕は少し慌てていた。
「少しね、話しても大丈夫かな?」
「えっと、別に構わないですけど」
安座真さんの口調は優しい。僕は少し安心したが、安座真さんが僕なんかと何を話したいのか、それは見当がつかなかった。
「実はね、君が部活に入った頃からずっと君のこと見てるんだけど、卓球部だよね」
僕の返事を待たずに、安座真さんは続ける。
「君、剣道部に来ないか?」
「えっ! 剣道部、ですか?」
あまりに唐突なその申し出に、僕は動揺を隠せなかった。
安座真さんは卓球部から僕を引き抜くつもりなのか?
確かに卓球部は剣道部みたいに全国大会常連ってわけではない。でも県大会では常に上位に入っているし、僕は1年ながら卓球部の中心選手だ。
「いや、それはお断りします」
即座に断った僕の顔色を見て、安座真さんも即座に諦めたようだ。
「ん!やっぱダメか!!」
そう言う安座真さんの顔は残念そうでも悔しそうでもなく、逆に嬉しそうだった。
少しの間、笑みを浮かべて僕を見ていた安座真さんは、急に真面目な顔をしてまた口を開いた。
「だろうと思ったよ。君が卓球部で活躍しているのはもちろん知ってるんだ。でももし君が剣道部に来てくれれば話が早いなと思ってね、イチかバチか聞いてみたって訳さ」
--なにがイチかバチか、だよ、大体今更剣道なんて、僕がやるわけないって分かってて言ってるんじゃないか、いい加減だな。
僕は心の中で毒づいた。
「うん、本当に悪かった。じゃあ今、話をさせてもらうよ」
安座真さんは僕の考えを読んだように続けた。
「今から聞いてもらう話っていうのはね、剣道とはあまり関係ないんだ。でも剣道部に来てもらうより、ずっと大事な話なんだよ」
そう言いながら、もし剣道部に来てくれればすごく嬉しかったけどね、といたずらっぽく笑う安座真さんは、僕の心を確かに掴んでいた。
「分かりました。それでその、お話ってなんでしょう?」
そして安座真さんの話は始まった。


真夏の沖縄じゃ、夜の8時前でも空にはまだ明るさが残ってる、薄暮っていう時間だね。
この季節になると、私はある家族のことを思い出すんだよ。
その家族に出会った頃、私は高校生だった。でもこの話をするにはまず、私が中学生の頃まで遡らなきゃならない。
あの頃、そうだな、中学生の頃っていうのは、体も心も、あらゆることが成長する時期だったね。君もそうだったんじゃないか?

そう問いかける安座真さんの瞳はとても優しげで、でも僕の瞳をまっすぐ見つめていて、僕は眼が離せない。
僕は安座真さんの話を聞く、というより、安座真さんの話に引き込まれていった。

中学の頃、私は沖縄の地元で剣道の道場に通っていたんだ。それまでに経験があったわけじゃないし、別に強くなりたかったわけでもなかったんだけどね。ただ、試合はもちろん稽古でも感じる張り詰めた空気感や、道場に入る瞬間、言い知れないどこかに入っていくような感覚が好きだったんだ。
道場は一般に開かれていたから、いろいろな人がいたよ。小学生が多かったけど、中学生や高校生、社会人もいた。私はその中でも初心者だったからね、小学生に教えてもらうこともあったな。強くなるのが目的ではなかった私にとって、そんな事もとても楽しかった。
そんなある日、稽古の順番を待っていた私に話しかけてきたのは、比嘉さんだった。
道場でも一、二を争う実力者だったよ。
その頃比嘉さんは三十代だったか。私とは歳が離れていたし、そもそも私は超が付く初心者だったからね、稽古をつけてもらうどころか話したこともなかった。言わば、憧れの先輩、といったところだ。
「安座真君、だったね」
「は!はい比嘉さん!安座真です!」
比嘉さんはなぜか私の名前を知っていた。
そのときの私は、驚きと緊張のあまり声が裏返ってたと思うよ。
「そんなに怖いのかな?俺って」
そう言った比嘉さんの目は、とても優しげだった。
「い、いえ!すごい人だと知ってますし!お話しするのも初めてなので!」
「いいよいいよ、そんなに緊張しないで、私の方はね、君が入ったときからちゃんと知ってるから」
「あ、ありがとうございます!」
「だからいいって、そんなに緊張しないで。それよりさ、ちょっとだけ僕と稽古してみないか?」
「え?」
意外な申し出に、私は驚いた。
「それはちょっと、僕は嬉しいですけど、僕なんかじゃ比嘉さんの稽古の方が・・」
「大丈夫、それより僕の方が君と稽古したいんだから、気にしないで」
道場では強い人にお願いして、何人かまとめて稽古をつけてもらうこともある。でもこれは比嘉さんと私、一対一の稽古だ。私に断る理由なんてなかった。
「はい!ありがとうございます!ぜひお願いします!」
「そうだな、まず掛かり稽古からいくか!」
「はい!」
掛かり稽古というのは、二人が元立ちと掛かる側に分かれて行う稽古だ。
元立ちは、掛かる側に対して打ち込む隙を作る、そして掛かる側はその隙を見逃さず全力で打ち込む。気力も瞬発力も必要な厳しい稽古だ。
まず私が掛かる側だった。比嘉さんは私に打ち込ませるよう、ここだぞ、と言うように隙を作る。その瞬間、私はそこを目がけて全力で打ち込む。でも比嘉さんはその全力の竹刀を全て軽々と打ち払った。
次は私が元立ちだ。
私はもちろん打ち込む隙を作るのだが、比嘉さんの打ち込みはその隙とほぼ同時、それどころか私がどこかに隙を作ろうと思った瞬間、正にその場所を寸分違わず打ち抜くようだった。
実力の差とはこういうものか、これほどまで違うものかって、当時は思ったね。
そこまで話すと、安座真さんは少しの間を置いた。

「隙を作ろうとした所に、それが分かっていたように打ち込んでくるなんて、剣道の実力者ってそんなにすごいんですか?」
その間を使って、僕は素朴な疑問を投げ掛けてみた。
「うん、そういうことは確かにある。でも比嘉さんの速さはちょっと、人間離れしていたね」
そう話す安座真さんの眼は、どこか楽しそうだった。
「でもな、そこからが大変だったんだよ」
安座真さんは少し目を伏せたが、すぐ僕に向き直って話を続けた。

「よ-し安座真君、掛かり稽古はこれくらいにしよう!さぁ次は、試合稽古といくか!」
余裕の比嘉さんに対して、私は掛かり稽古だけで息が上がっていたが、それでも試合稽古に臨む気力はあった。
試合稽古はもちろん本当の試合じゃない。お互いが常に気合いを張り詰めて、正しい姿勢を保ちながら打ち合う、模範試合のようなものだ。しかし稽古とはいえ勝敗をつけるのだから、厳しい稽古になるのは分かっていた。
試合稽古が始まると、比嘉さんは正面に構えほとんど動かない。でも、面の中から私を見つめる目は、まるで私を射貫くようだ。
これでは私の方から仕掛けるしかない。だけど私が仕掛けると、比嘉さんは一歩、いや、半歩動いたかどうか、という間合いで竹刀を避けた。
打っても打っても比嘉さんは避ける。かといって私が止まると、比嘉さんはわずか数歩、滑るように近づいて私の間合いに入ってくる。
その恐ろしい速度と叩きつけるような気合だけで私は圧倒された。
私はもう、比嘉さんを自分の間合いから押し返すために、ひたすら打ち込み続けるしかなかった。
道場にキュッキュッと響く私の足音、二人の竹刀が競り合い、そして気合を込めた一撃。しかし、その全ては虚しく空を切った。
私の息ははぁはぁと上がり、もう立っているのもやっと。
そしてようやく、比嘉さんは次々と私の隙に打ち込んできた。まるで私がふらふらになるのを待っていたかのように。
さっきまでの間合いを詰めるだけだった比嘉さんとは別人だった。
しかしその打ち込みは軽く、そしてどれも間一髪決まらない。
いや、決めようと思えば一瞬なんだと、私には分かっていた。
比嘉さんはわざと一本を決めず、ふらふらの私を更に追い込んでいるんだ。
「なんで、どうしてこんなことを」
私は面の中でつぶやいた。
「比嘉さんは、僕をいたぶってるのか?」
頭に巻いた手ぬぐいから汗が流れて眼に入る。痛い。視界がぼやける。
もう息もできない。苦しい。
「もう限界だ」
そう感じた瞬間だった。
私の目が比嘉さんの隣に何かを捉えた。
比嘉さんの隣に確かにいる、比嘉さんではないもの。
それは、人の形をした白い影だった。
それが何なのか、私に考える余裕はなかった。ただ本能が、それを打てと言っていた。
「ぃやあ---っ!!」
裂ぱくの気合を込めたその一撃は、白い影を真っ二つに切り裂いた。
「やった!」
一瞬、比嘉さんの姿が私の視界から消えた。次の瞬間私が感じたのは、私の脳天に振り降ろされた竹刀の衝撃だった。
真っ二つに切り裂かれた。私はそう思った。
目の前が真っ暗になった。次に私の眼が捉えたのは、煌々とした道場の照明だった。私は尻もちをついて、天を仰いでいたんだ。
どうやら一瞬気を失ったようだ。そんな私の腕を引いて立ち上がらせてくれたのは、他でもない比嘉さんだった。
そしてまだ荒い息づかいの私に、比嘉さんは言ったんだ。
誰にも聞こえないような小さな声で「何が見えた?」って。
その質問に答えるだけの気力は、もう残ってはいなかった。
すっと、気が遠くなった。そして今度は本当に、気を失ったんだよ。
その日の帰り、比嘉さんは私を車で送ってくれてね、そして車中、私に話をしてくれたんだ。
「安座真君、今日は悪かったね」
「いえ、ものすごい練習になったと思います。ありがとうございました」
それは本心だった。道場でも有数の実力者に、最後は本気の面をもらったんだから。
「君のことは、道場に入った時から知っている。私は最初そう言ったね。でもなぜ初心者の君のことを私が気に掛けていたか、分かるかな?」
「いえ、僕は確かに初心者だし、稽古は好きですけど全然強くならないし、どうしてなんですか?」
ふふっと、比嘉さんは笑い、僕の質問に答えてくれた。
「君は道場に入るとき辺りを見渡して、なにかを探すだろ?」
「あ、はい」
それは本当のことだった。道場に入るとき、何か薄い膜を破って異世界に迷い込んだような感覚になる。それがどこから来るのか、なぜ感じるのか、いつも探していたんだ。
でもそれが見つかる事はなく、いつしかそれは、自分の癖みたいなものと思っていた。
「僕はね、君が何かを探していることも、それが何なのかも知ってるんだよ。それで今日はね、それが何なのか、君に見せてあげようと思ったんだ。そのために君を限界まで」
「あ、あの白い」
私は比嘉さんの言葉を遮ってそう言いかけて、そしてすぐに口をつぐんだ。自分自身では、それは限界を超えた自分が見た幻覚だと、そう思っていた。
でも比嘉さんは、その言葉を待っていたかのように言った。
「そう、それだよ」
比嘉さんにそう言われて私は初めて、あの白い影が幻覚ではなかったと知ったんだ。
「あれって、いったい」
「あれはね・・」
それ以来、比嘉さんに教えてもらったあれは、私にとって日常になった。
あれが見えたとき、そして比嘉さんが脳天に打ち込んだ一撃のその瞬間から、私には日常になったんだ。

安座真さんはそこまで話すと、また少し間を置いた。
僕は、ふと眼が覚めたような気がした。安座真さんの話の間、まばたきを忘れていたのか?
それどころか僕は、安座真さんの話に入り込みすぎて、自分自身が比嘉さんという人と稽古をしたような気がしていた。
それにしても、安座真さんが打たれたという脳天がちょっと痛むのも、気のせいなのだろうか。
「安座真さん、その、あれっていうのは」
「気になるよね、でもここからが本題さ」
そう言うと、安座真さんは話を続けた。

四年後、高校生になった私は、部活として剣道を続けていた。
あの件以来、私は神がかったように強くなっていた。だから進学も、剣道が強い県外の高校にしたんだ。ここじゃないけどね。
その高校で寮生活を送っていた私は、毎日激しい練習に明け暮れていたし、一年生から認められて大会にも出ていたから、まともに帰省することもできなかった。
でも、高校最後の夏は違ったんだ。
その夏の大会前に怪我をしてしまってね、私の部活は夏前に終わってしまった。だから私は、最後の夏休みを沖縄に帰って過ごしていたんだよ。
久し振りに過ごす沖縄の夏。居心地はもちろん良かったけど、それまでミリミリと音を立てるような全国レベルの緊張感に浸っていた私にとって、突然に訪れた穏やかな日常は、実はちょっと辛かったんだ。大会に出ていれば今頃、なんて、そんな悔しさもあったと思う。
それで私は、毎日馴染みの道場に出向いて軽い稽古をさせてもらう傍ら、小学生の指導をさせてもらっていたんだ。
本当は比嘉さんと稽古したかったんだけど、引っ越してしまったそうで、もういなかったからなぁ。
小学生の稽古は早く終わる。私も一応受験を控えていたからね、道場はそこで引き上げて、あとは家で受験勉強っていうわけだ。
初めてあの家族に出会った、いや、正確に言えば、初めてあの家族の会話を聞いたのは、そんな道場の帰りだった。

「夜8時頃、夏の沖縄ではこの時間、空に夕日の名残があるだろ?夕焼けはとっくに消えてしまったのに、明るいとも暗いとも言えない不思議な風景を作り出す時間。映画の世界ではマジックアワ-という時間帯だ」
「マジックアワ-、ですか」
僕はその言葉を知らなかった。
「そう、マジックアワ-。言葉どおり魔法の時間だよ。でも日本では、逢魔ヶ刻と言う」
「おうまがとき?」
「魔物に出会う時間ってことさ」
安座真さんの話は続く。

私の実家はね、沖縄でも田舎と言われる土地柄でね、バスを降りると家まで一本道。
その道沿いにある家々も同級生が結構住んでいるし、子供の頃から知っている家ばかり、のはずだった。でもその家は違ったんだ。
大きなガジュマルの木のそばにあって、昔からよく知っている場所、ずっと前からそこにあったはずなのに、それは初めて見る家だった。つまり、それまでずっと気づかなかった、ということだね。
なぜ今更その家に気が付いたのか?
それは、その家からとても楽し気な笑い声が聞こえてきたからなんだよ。
ブロック塀で歩道と隔たれたその家は、カ-テンの掛かる大きな窓がいくつもあって、明るい光が漏れている。温かい家庭を連想させる優しい光、そしてその窓から、仲のよさそうな家族の会話が漏れ聞こえていたんだ。
その会話は、そうだな、今日の晩ご飯はハンバ-グだよ、とか、今夜のドラマは見逃せない!とか、あのアニメ録るの忘れた!とかね。家族の会話としては、ありきたりなものだったと思う。でも、これが実に楽しそうでね、それからは、その家の前を通り掛かる度にそんな会話が聞こえてきて、つい立ち聞きしてしまうんだ。
どうやらその家は、両親と娘の三人家族、そして数匹の猫がいるようだった。
家族が話してると、それに割り込むように必ず猫の鳴き声がしたし、家族もそれに合わせて言うんだよ、かわいいね、かわいいねって。猫を囲んで笑顔が溢れている。そんな幸せな家族の風景が目に浮かぶようだったよ。
いつしか私にとって、その家の前を通るのは、ちょっとした楽しみにもなっていた。
でもある日、私は気付いてしまったんだ。その家族の会話の不自然さにね。
なにが不自然かって、それはね、前に聞いたことのある話が、また出てくるんだよ。
一度や二度なら単なる偶然かと思った。でもね、夕食がオムライスだとか、新番組のドラマの話とか、アニメを録るとか録らないとか、少しづつ違う気はしたけど、ほとんど同じ会話が順番に繰り返されているんだ。
気のせいだと思いたかったけど、そのせいで余計、その家族の会話に聞き耳を立てるようになってしまった。
そしてある日、父親だと思っていた声が、突然こんなことを言ったんだよ。
「おとうちゃん、帰ってこないね」
すると母親の声が続いて、こう言った。
「おかあちゃんも、帰ってこないね」
それに娘の声が続いた。
「おねえちゃん、寂しくないかな、早く行かなくちゃね、迎えにね」
そして小さな子供の声が、聞こえた。
「おなか、すいたね」
初めて聞く声だった。全身に鳥肌が立った。
そして急に恐ろしくなって、私は家まで走って帰ったんだよ。
「た、ただいま!」
「どうしたの?」
私の顔を見るなり母が聞いた。
「顔、真っ白だよ?」
「ん、いや、なんでもない。なんでもないんだけど」
私は、少しの間うつむいたまま息を整えると、思い切って聞いてみた。
「あのさ、バス停からうちまでの道沿い、ほら、あの大きいガジュマルの手前位に家があるの、分かる?ブロック塀と大きな窓があってさ」
私の話を遮るように、母は言った。
「あぁ、新垣さんねぇ」
そうか、新垣さんっていうのか。知らない家だったな。そう思ったとき、母は続けて言った。
「でもあそこね、今は誰も住んでないよ」
母は、少し言いにくそうな表情を浮かべていた。
「えっ!そんなはずないよ、僕は毎日通り掛かって、電気も点いてるし、ずいぶん楽しそうな声が聞こえるよ?」
そう反論する私の顔を母はまじまじと見ていたが、冗談を言っているわけではないと思ったのか、こう続けた。
「へぇ、そうかねぇ、お母さんもよく通り掛かるけどさ、そんな声なんて、聞いたことないねぇ」
そこに父が割って入った。
「そりゃあれだ、親戚がいるんだから、後始末に来てることもあるさ、それにあそこは、猫がいるしなぁ」
母が続いた。
「そうそう!猫がいるね、三匹かな?あ、子猫を拾ったって聞いたことがあるから、四匹?」
「そうかもなぁ、だからさ、あの後、猫の世話に姪っ子だかが来てるわけさ」
父の言葉に母も納得したというように「だぁるねぇ」と言うと、ほらね、といった顔つきで僕の顔を覗き込んだ。
私はそんな母を無視して、更に聞いた。
「あの後って、何があったの?」
あの家には今も何かがいることを父と母は知らない。私は真剣だった。
「ね、あの後って、なにさ」
二人とも、そのことについては話したがらなかった。でも、そんな私に押されたのか、ようやく父がその重い口を開いてくれた。
その家は昔から空き家で、古い上に小さいからずっと買い手がつかなかったこと、それが二年ほど前、その家がリフォ-ムされたのを機に家族連れが引っ越してきたこと、そしてその家には数匹の猫がいて、とてもにぎやかで幸せそうだったこと。
そこまでは私も納得だった。私がいない間にリフォームされているからあの家は記憶になかったし、漏れ聞こえる会話から想像する家族にぴったりだ。
父は続けた。
「でもな、ほんの一か月前さ、あそこの家族は全員が亡くなったのさ」
母が重苦しい口調で続いた。
「あっちよ、バス停の先にある交差点、あっちで家族の乗った車が飲酒運転の車に突っ込まれたんだよ」
その家族は元々この土地の出身ではなかったから、葬儀は別の場所で行われたという。なにしろまだ付き合いも浅く、父も母もそれ以上のことは知らなかった。
でも残された猫たちや今後のこともあるため、親戚が来ては猫の世話をし、荷物を片付けているらしい。
「そうなのか」
ふたりの話を聞いて、あの家にいるものがなんなのか、私にははっきりと分かった。

翌日、私は昼と夜の狭間、逢魔ヶ刻にその家の前にいた。
その日も、家の大きな窓からは明るい光が漏れ、家族の楽し気な会話が聞こえている。そしてやはり、猫の声も聞こえる。
私は歩道からブロック塀の内側に入り、大きな窓に顔を近づけて、言った。
「お前たち、猫だね」
その瞬間、今まで続いていた楽し気な家族の会話はぷつんと途切れ、同時に家は真っ暗になった。
明かりなんて、最初から点いていなかったんだ。
やっぱりか。口には出さなかったが、そう思った私はなおも続けた。
「お前たちは、幸せだったんだね」
家の中からは何の反応もない。でも私には分かっていた。やっぱりいる。
「でもね、お前たちが大好きだったおとうちゃんもおかあちゃんも、そしておねえちゃんも、もういないんだよ。もう帰ってこないんだよ。もう死んでしまったんだよ」
家の中の気配が濃くなった。
分かる。暗闇の中、八つの目がこちらを見ている。猫は三匹じゃない、四匹だ。
「だからお前たち」
私が更に話し掛けようとしたその時、私を圧倒するように声が響いた。
「うそだっ!!」
父親の声だ。
「うそ!」
母親の声。
「うそうそうそ」
娘の声。
「うそだうそだうそだうそだうそだうそだ」
「うそだうそだうそだっ!!!!」
「ヴ-ヴゥゥ---!」
三人の声と猫の声、子猫の声に聞こえた。
「うそじゃないんだ、もう三人は帰ってこないんだよ」
私は持てる限りの力を言葉に込めた。
「お前たちは幸せだったんだろ?おとうちゃんもおかあちゃんも、おねえちゃんも、お前たちのことが大好きだったんだから、ちゃんと認めるんだ、お前たちも大好きだった三人のために、もう静まるんだ!!」
このまま放っておけば、この猫たちはこの世に強い未練を残す。そして、もうすでにマジムンになろうとしているこの猫たちは、きっとこの世に害をなす。
その時の私はそう思って、猫たちの未練を断ち切り、救ってやろうと思ったんだ。
でもすぐに、それが未熟な私の浅はかな考えであると、思い知ったんだよ。
私が猫たちに敗けたのかって?
いや、違う。
ただただ、私の考えは浅はかだったのさ。
安座真さんは、僕の眼を見つめながらそう言うと、少し目を伏せた。
「猫たちはね、こんなことを言ったんだよ」
安座真さんは更にうつむいた。もしかしたら安座真さんは、泣いているのかもしれない。
そこからの話を、僕は聞いているのか感じているのか、よく分からなかった。

「おとうちゃんがね、言ってたんだよ」
娘の声だった。
「おとうちゃんは、お前たちが大好きだって、でもきっと、お前たちはおとうちゃんより早く死ぬんだよって」
父親の声がそれに続く。
「そう、お前たち猫は、人間より寿命が短い。だから早くお別れするんだよって」
次に母親の声が、静かに言った。
「でもね、お前たちのように人に愛された猫は、死んでも天国に行かないんだって。天国じゃなくて、長い長い虹色の橋を渡って、そこで暮らすんだって」
猫たちは口々に私に訴える。
「そこは天国じゃない。でも、お前たちはそこで幸せに暮らして、おとうちゃんたちを待つんだよって」
「そのうちね、おとうちゃんたちがその橋を渡って、お前たちを迎えに行くからねって」
「そしたら一緒に、天国に行こうねって」
「おとうちゃん、おかあちゃん、おねえちゃん、家族みんながそろったら、一緒に天国に行くからねって」
「約束するよって」
「だからきっと」
「きっと」
「おとうちゃんたちは、死んでない!!」
「おとうちゃんたちは今、虹の橋の向こうにいるの!!」
「おかあちゃんも、おねえちゃんも!!」
「みんな、みんな、虹の橋の向こうで私たちを待ってるの!!」
「だから迎えに行かなくちゃ」
「そう、迎えに行くの」
「私たちが、おとうちゃん、おかあちゃん、おねえちゃんを迎えに行くんだよ!」
「おとうちゃんを!」
「おかあちゃんを!」
「おねえちゃんを!」
「おとうちゃん!おかあちゃん!おねえちゃん!」
「あ--んあ--ん」
「あ--んあ--んあ--ん」」

猫たちの叫びは、鋭い刃となって私の心を切り裂いた。
この子たちの未練を断ち切るなんて、僕には無理だ。私はそう思った。
私の耳に、また猫たちの声が響いた。
「だからね、私たちはその日まで、一生懸命に生きるの」
「みんなを迎えに行くその日まで、ちゃんと生きるの」
「あの人たちが愛してくれた、猫として」
「にゃ-んにゃ-んにゃ-ん」
猫たちが鳴いている。
きっと涙を流している。
私の目からも涙があふれた。
拭いても拭いても、涙があふれた。
そして私はその場から、立ち去るしかなかった。
この子たちはマジムンなんかにならない。
それが分かったからだ。
その後、私はその家の前を通るのをやめた。
降りるバス停を一つ先に変えたんだ。
夏休みも終わろうとするある日、受験勉強をしている私に、なにげなく母が言った。
「そうそう、前に言ってたあの家ね、親戚が猫の世話をしに行ったら、猫たちみんなそろって居なくなってたってよ、どこに行ったのかねぇ」
「ふぅーん、そうねぇ」
気のない返事をしながらも、私には猫たちがどこに行ったのか、本当ははっきりと分かっていた。


「これが私の話の全てだよ」
安座真さんの話は終わった。
その瞬間、僕はどこからか帰って来たような、不思議な感覚に襲われた。
安座真さんの話を聞いていたんじゃない。安座真さんと同じものを見て、感じた。そして今、帰ってきた。だから僕には、その猫たちのことが手に取るように分かったんだ。
猫は四匹だった。二匹は雌の三毛猫、もう一匹は雄の大きな白猫、そして最後は茶色い雄の子猫。
猫たちとその家族の安らぎに満ちた日々、幸せな会話。そしてそれが、壊れる瞬間。
猫たちの気持ち、安座真さんの気持ち、すべてが頭の中で渦を巻いた。そして僕にも、その猫たちがどこに行ったのかが、分かっていた。
気が付けば、僕は泣いていた。
涙は止めようにも止まらなかった。
「何が見えた?」
安座真さんは、泣いている僕の目をまっすぐ見つめながら聞いた。
僕はその質問に答えなかった。
「安座真さん、安座真さんはなんで僕にこんな、こんな話をしたんですか?」
「おお、そうだね、ごめんごめん」
安座真さんの目は急に優しくなり、ちょっと大げさに謝って、そしてこう言った。
「私は中学生の時、人の気を見る方法を教えてもらったんだ。比嘉さんに面を打たれたときにね」
安座真さんの言葉を切っ掛けにして、僕の頭の中に次々とその映像が流れ込んできた。そしてそれが意味することも、理解することができた。
剣道の実力者である比嘉さんが初心者の安座真さんに仕掛けた無茶な稽古、あれは剣道の稽古なんかじゃなかったんだ。
あれは、人の気を見るための稽古。
極限まで追い込んだ安座真さんに、比嘉さんは自分の気を切り離して見せた。比嘉さんの隣に見えた、白い人影がそうだ。
並外れた素質がなければ、きっとそれは見えないのだろう。
でも安座真さんはそれを実体として捉え、打ち込むことができたんだ。
そう理解した僕の顔を見ながら、安座真さんは満足そうに微笑んでいる。
「だから私はね、それから常に、人の気を実体として見ることができるんだ」
やっぱりそうか。言葉に出さず、僕は心の中でつぶやいた。
僕にはもう、安座真さんが次に何を言うのか分かっていた。
「だからね、私には君の気も見えてるのさ。それがどんな性質なのか、今の大きさや、本当はどれほどの能力を秘めているのかも、ね」
安座真さんも、僕の心の声を聞いている。
「でも、ただそれだけのことで、君のことを見てたわけじゃないぞ?」
安座真さんはひと呼吸置くと、こう言った。
「君はいつも、何かを探すような素振り、するよね?」
確かにそうだった。
初めてこの学校に来たとき、部活で体育館に入るとき、卓球の試合に臨むとき。
僕もその答えを探していたんだ。そこで何かを感じてしまう自分が、いったい何者なのかという、疑問の答えを。
「君の気は大きい。凄まじい力だ。私なんか比較にならないくらいにね。君も薄々それを感じていたんじゃないのかな?」
安座真さんの言葉を聞きながら、僕は昔のことを思い出していた。

小さい頃、僕は弱虫だった。
いつも母の胸で泣いている幼い僕に、母が掛けてくれた言葉。
「アンマークートゥ、アンマークートゥ、おかあさんのことだけ見ておきなさいよ、おかあさんが、すぐにいなくするからね」
母は左手で僕を抱きしめながら、右手で簡単な印を結び、前に突き出して“フッ”と息を吹いた。
その瞬間、母の体から白い気が立ちのぼり、あっという間に膨れ上がる。
僕はその気に包まれながら、母の右手の方向に目をやった。
そこには、母の気に包まれて今まさに消え去ろうとしている異形のものが見えた。
僕は目をしっかりと閉じた。
僕の耳に、母の言葉が響く。
「お前はね、おかあさんよりずっと強いのよ?そのうちきっと、目覚めるよ?」
「そうしたら、その力を・・・」


「・・くん」
「まきょうくん」
「真鏡くんっ!!」
安座真さんが僕の名前を呼んでいる。
「真鏡くん、目覚めたか?」
「はい、安座真さん、はっきりと分かりました」
「そうか?本当か?なにが分かったんだ?」
「安座真さん、今喋ってる安座真さんって、安座真さんの“気”ですよね」
僕がそう言うと、目の前の安座真さんは「がはは」と笑って、ふわりと消えた。
「完全に目覚めたようだね、真鏡君」
安座真さんは、教室の入り口に立って僕を見つめている。
「安座真さん、僕」
「ん?なんだ?」
「剣道部で、お世話になろうと思います」
「ほんとか?そうか!歓迎するぞ!!真鏡!」
「はい!お願いします!!」
そうだ、これから僕は剣道部に入る。
この人に教えてもらうんだ、僕の力の使い方を。
そして僕が強くなったら。
あいつらに負けないほどの力を付けたら。
帰ろう。
沖縄へ。
そして救うんだ。

おかあさんの、魂を。

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