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お客様の信頼が老舗を作る。芝大門の歴史をつなぐ「更科布屋」

浜松町Life Magazine、第5回は、更科布屋店主の金子栄一さん。芝大門地域で生まれ育ち、「布屋萬吉」を襲名され7代目として店舗を切り盛りされる金子さんに、街の歴史や魅力について伺いました。

ランドマークを中心に賑わう街「芝大門」

―金子さんとこの街の関係についてお伺いできますか?
生まれは芝大門です。元々は港区七軒町という住所でした。ここは七人の地主がいた土地で、色々な町名があった場所だったのですが、私が中学生の時に区画整理でまとまって、芝大門になりました。この住所の名前を決めるにあたっては、地元の町会が「芝大神宮の芝と増上寺の総門である大門をくっつけて芝大門にしよう」と声を上げたんです。結果今の「芝大門」の住所になったわけです。

―街の二つのランドマークに由来した住所だったんですね。
大門はこの地域のランドマークでもありますが、戦後は別の意味も持っていました。戦争によってこの辺りは焼け野原になったのですが、この門だけが残っていたらしいのです。なので私の祖父たちの世代にとっては復興のシンボルでもあったのだと聞いています。
 
また、芝大門には版元と呼ばれた出版社たくさんありました。うちの店にもたくさん版画が残っていますが、それは出版社が近くにあった名残りなんですよね。芝大門を通る東海道は、参勤交代で大勢の人が行き交う場所でしたから、手軽で嵩張らない版画はお土産としても大変人気を博していたんです。

江戸時代の古地図から、当時は武家屋敷が多かったことが伺える。

―この地域は多くの人が行き交う場所だったのですね。
芝地区には東海道が通っていますので参勤交代の武士や多くの商人が行き交っていましたし、増上寺があったので修行にくる僧侶もいました。当然そこに住まう町人もいて…、とにかく多くの人で賑わう街だったんですね。
 
増上寺とか芝大神宮は当時の観光地でしたしね。特に増上寺は徳川家の菩提寺で、浄土宗の東の大本山にあたります。三解脱門(※)の二階のステージは今でいう東京タワーやスカイツリーの展望台のようなものだったのではないかと思います。それにあまりイメージがないかもしれませんが、大名や旗本のような武士もたくさんいて、一帯に大名屋敷が並ぶことから愛宕下は大名小路とも呼ばれていました。江戸で大名小路と言われたのはこの芝地区と丸の内だけだったそうですよ。
 
※三解脱門:増上寺の大門通り側正面にある門のこと。煩悩から解脱した覚りを開くための三種の修行「空門」「無相門」「無願門」の三門に由来している。大門から大殿本堂に至る道程は、穢土(えど・我々の世界)から極楽浄土に至る世界を表している。

生まれ育った芝大門の様子を生き生きと話してくださった金子さん。

このように芝には歴史の中で絶えずランドマークが存在しているんですよね。ちなみに一番古いもので言えば、5世紀ごろからあったとされる丸山古墳。ザ・プリンス パークタワー東京の横にありました。昭和33年には世界一の鉄塔になった東京タワーが、その後昭和45年には貿易センタービルが建設されています。貿易センタービルさんの建設時期というのは東京オリンピックの開催時期でもありました。高速道路やモノレールも整備され、地下鉄も走るという時代がやってきて、地域が栄えていく感覚がありましたね。
 
あと、交通ということでいうとこの街には港もありますよね。この港は実は南極まで繋がっていたんです。

−え、南極ですか!?
南極観測隊ってあったでしょう。南極観測隊の宗谷という船が有名なんですが、その乗組員の方がよくうちに食べに来てくれていたんですよ。僕は当時まだ小さかったので、乗組員さんたちがとても可愛がってくれました。「南極の石をあげるよ」といって実際に石をくれたりしてね。とてもいい思い出なんですよ。

―この地で生まれ育った金子さんから見て、街や人の印象に変化はありますか?
昭和電工さんや東京電力さんなど、昔から変わらない部分もありますが、僕が子供の頃と今とは雰囲気が全く異なりますね。ビジネス街としての色が強くなってきて、地元に住んでいる人がどんどん少なくなっている一方で、東京タワーができたことで観光客は増えました。
お店のお客さんとしては、東京タワーへの観光客や増上寺への参拝客、それからビジネスマンの方々が多いです。海側の開発も進んできたので、浜松町駅、大門駅、御成門駅には人の流れがしっかり生まれています。

親子だからこその難しさ。それでも渡す「バトン」

―お店の成り立ちをお伺いできますか?
「更科布屋」という屋号でもわかるように、元々は信州の反物商でした。当時は苗字なんてなかったころですが、布屋の萬吉という人が地元の食べ物である蕎麦を江戸詰めの地元のお侍さんに振舞ったことがきっかけで蕎麦屋に転職したと聞いています。元々は1791年(寛政3年)に日本橋の薬研堀に開業しましたが、そこからここ芝大門に移転して130年が経ちました。

昔仕事着として職人や出前持ちが着ていたものを復元した半纏。

―長く続くお店を継がれるときには苦労もあったんじゃないですか?
ちょっと話が逸れて聞こえるかもしれないですが、歴史の話をさせていただきますね。
増上寺は徳川家の菩提寺なので、将軍の墓所が設けられています。徳川将軍家は15人の将軍がいましたが、この内何人が増上寺に祀られていると思いますか?正解は6人です。増上寺以外にも菩提寺はもう一つあって、天海が作った上野寛永寺にもう6人がいます。残りの3人は全く別の場所にいますが、不思議なことに実の親子で同じ墓に入っている人は一組しかいないんですよ。増上寺と寛永寺で人数に偏りがあるとバランスを欠くと考えたのかもしれませんが、私は親子の色々な思いがあって一緒に入らなかったんだろうなと思うんです。代々店を継ぐ僕らもそういう意味では似たようなもので、店では親父で、男同士で、上司で、先輩で、師匠でってなるわけですよ。仲が悪いわけじゃなくても、意見の食い違いっていうのはあります。だから、親子で同じ仕事すると難しいなあっていうのは、徳川のお墓の話を見ると、なるほどなと。
 
でも、意見の違いはありながらも、店は代々バトンを渡してきているから今こうやって続いています。

―バトンを渡す秘訣って何でしょうか?
このお店はよく老舗、と言われます。老舗って聞くと長い間同じ商売をしているっていう風に考えられますよね?けど僕が思う老舗というのは、お客さまから「そこに行けば、自分の思っている間違いのない品物が手に入る、食べられる」という信用を得ている店舗のことだと思うんですよね。「あそこに行けば間違いないものが手に入る、食べられる」という信用、それを守っていくのが老舗の務めです。

お店で提供されている変わりそば。更科そばに季節の香りを打ち込んでいる。

老舗って、変えるべきものと絶対に変えちゃいけないものと、二つのバランスが大事なんです。よく言われるのは「流行り」と「不易」ですね。「流行」に合わせて変えることは攻めの姿勢で、「不易」として変えないことは守りです。僕らにとっての「不易」は「味」だと思うんです。僕が「味」を変えれば、お客さんの「間違いないもの」に対する信用は揺らいでしまうと思うんですよね。
例えば木鉢会っていう蕎麦屋の会合があるんですが、たまたま僕が幹事をやる機会があって。その時に一度全部の店のおつゆを集めてみたことがあるんです。当然全部味が違いますが、やり方がわかれば真似することもできちゃいます。でも絶対にやりません。お互いにそれがわかっています。その店の「不易」で変えちゃいけないものっていうのは、僕らにとっては「味」なんです。だからそこだけは変えない。でも攻めとして、例えばうちならば変わり蕎麦とか、季節を感じる食材を使うとか、そういった変化はつけています。
流行という目線でバリエーションを作るということも大事なので、そういったことには積極的に挑戦しているということです。

継承し続けるための「愛着」と「執着」

―この街には同じように長く続くお店が多くありますよね?
この芝地区には三代百年以上続くお店というのもたくさんあって、そのお店を集めて2016年に「芝百年会」という団体を立ち上げました。「芝百年会」には和洋それぞれの老舗が集まっています。和の老舗では、一番古いのは和菓子とか、それから釣り竿とか、佃煮とか…そういったお店が18軒集まっています。それから、洋の老舗も11軒あって。

―「洋」の老舗とは新鮮ですね。
この芝地区は東海道や鉄道といった交通の要所なので、横浜の港から海外の文化が直接入ってきていたことに由来します。洋菓子とか、コーヒーとか、当時日本になかった錠前の鍵屋さんとか、西洋文化をいち早く取り入れた洋の老舗です。
さっき言ったように、守るべきものを守りながら、変化も取り入れる。そうして続いてきたお店たちが芝百年会には参加しています。

芝百年会の物語は書籍にもなっている。

―やはり老舗には共通する部分があるのですね。
そうですね。長く続いているお店に共通する点として、地元への「愛着」と、家業への「執着」があると思うんです。継承という観点で言うと、長男が引き継ぐだけではなくて、娘さんが引き継ぐお店も当然あるんですよね。昔の価値観で言えば男が継ぐべき、と言われるようなところでしょうけど、そうした継承も実際にはあったわけです。親から伝わってくる家業への「執着」、それを何かしらかの形で残していこうという姿勢の表れだと思うんですよ。
 
苦しい時に踏ん張らねばっていう執着と言うかね。それがないと越えられないことってありますよね。当然それでもだめなことだってもちろんあります。生活様式が変わって商売として成り立たなくなることもあるだろうし。そこで「不易」と「流行」をどう考えるか。家を守るために家業を変える選択だってあります。ただ、やっぱりそれでも家を守るって、大事なことだと思いますね。

―そういったお店がこの街の個性を生み出していますよね。最後に、金子さんが今後やってみたいことや夢があれば教えていただけますか?
温故知新という言葉がありますが、古いものを忘れてしまったり、失くしてしまうのではなくて、その中に物凄くいいものがたくさんあるっていうのをたくさんの方に知ってほしいと思います。この街の流れとか、歴史とか、伝統とか、風情とか、そういうものを知らないとこの街を好きになれないし、知っているから好きになれる。
 
僕らはここで生まれて、育っている人間だから、どうしてもこの土地に愛着があるし、思い出がたくさん詰まってるんだけれども、ここに通っているビジネスマンさんも、ここに通っている学生さんたちも、同じようにこの街での思い出をたくさん作ってくれたらいいなと思いますね。この街と縁を持った方が、この芝大門浜松町を第二の故郷と感じてくれたらとても嬉しいです。

 多くの人で賑わう大門通りで、お客様を暖かく迎え入れる「更科布屋」。

取材・文:三浦謙太(世界貿易センタービルディング)・中塚麻子(玉麻屋)/編集:坂本彩(玉麻屋)/撮影:yOU(河﨑夕子)

 更科布屋
http://www.sarashina-nunoya.com/
東京都港区芝大門1-15-8

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