『哲学の蠅』(サンプルのみ)

感じることが盛りだくさん過ぎて言葉にならない。
サンプルのみで止まってしまった。
サンプルだけだけどいろんな感情で頭の中や胸の内が渦を巻いている感じがする。

渦の中から何かを引っ張り出して見やすいカタチにしてみたいと思うと同時にそのまま放っておいた方がいいのかもしれないとも思う。

この世の中にはいろんな人間が生きている。

このシンプルだけど非常に曖昧な一文。シンプルで曖昧であるからこそ「いろんな人間」についての想像の仕方は人それぞれだ。

人それぞれ想像力に違いはあるとはいえ、本作に登場する人物たちに触れないとこういう人たちについて想像できないものだろうか?違う問い方をすると、本作に登場するような人物に触れれば想像力というものは伸び広がってこういう人生を送っている人もいると分かるものなのだろうか?

私はサンプルを読んで非常に困った。
刺激が強過ぎると言ってしまうとあたかもそれを読むまで想像だにしなかったことに触れたかのように思われてしまうかもしれない。でも事実は逆と言った方がいい。こういう言い方もまた誤解を生じさせてしまうだろうけれど、私にとってそこに描かれていることは必要不可欠のものではなく余分なものなのだ。
これを読むまでもなく私は人間の趣味趣向が多様であること、歩む人生行路が家族によって影響される度合いは非常に大きくまた影響の種類も例えば母と子という個々の組み合わせによって異なるので多岐にわたってとても数え切れるもんではないということは知っている。
私が知っているからといって描いちゃいけない道理などない。私が読まなければいいことだ。
ただ。やはり。
「必要なのか?」
という問いが頭から離れない。
私にとってではない。
これで私たち人間の想像力もちょっとは伸び広がるのだろうか?

そう考えていくと、想像力って一体どういう仕組みで作動しているのか?ということが気になってくる。
無からは何も生まれない。だから想像するにしても既に知っている何かが材料(きっかけ?)になる。
知っている何かというのは人それぞれ違うけれどまさか世の中のありとあらゆるモノゴトを知っている人なんていないだろうから、自ずと想像できるモノゴトも限られる。
私が気になることは、知っていることも想像力も限られたものであることは自明なのだけど、それら限られたものでどうすれば世の中のモノゴト全部について面倒を看ることができるだろうか?というまさに無理難題。

理屈からすると、「面倒を看る」のに世の中のありとあらゆるモノゴトそのものについて知っていたり想像できたりする必要はないということになる。
知りもしないし想像もできないのに面倒を看る???
おかしなことを言うもんだ。我ながら。。。

さらに理屈を進めてみると分かることは、全部は知らない、想像すらできていない、と自覚さえできれば、その範疇(自分が知っていること、想像できていること)の外側にも人が生きているということに気付く可能性ぐらいはある、ということになる。

こうして考えてみると私が言う「面倒を看る」というのは看護師さんよろしく直接誰かを看病するのではなく、概ね意識の外にあるとしても視界の片隅に存在を感じておくというとっても控え目なもののようだ。

控え目だけれども私はそういうのがとても大事なんだと信じている。(かつての人気ドラマ「ぽっかぽか」でヨシヒコ(羽場裕一)さんも言っていたというかそっからのパクリ?)

存在するものを勝手に無いものとしない。

こう言うと非常にお堅いけれどそれが本当に日常生活の中で習慣付くとするなら本作を殊更センセーショナルなものとして受け取ることもなくなるんじゃないだろうか。私はそういう世の中を見てみたい。

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