つまるところ自己内対話

新マガジン『動的平衡の社会学』イントロダクション

人生暇つぶし。

いろんな暇の潰し方を考える。

最も効果的なのは自分の中での対話。

だって誰かにアポとって会う必要もないでしょ?

家族?

いやあ。

そりゃいつでもそこにいてくれる人ってありがたいけども。

いっつもお話したり聞いてもらったりってのはさすがに無理でしょ?

お互い都合がある。

英語で色々と文章を読んでいると感じられるのが、キャラクターとしての、Introvert軽視というか、あまりいいものとして見ない見方。

とはいえ、案外定義は難しいらしい。英語話者の間でも。

日本語にすると内向的、というのが最もストレートな訳なのだけれども、英語話者としても(いやだからか?)、単純に内向きということでは片付かないらしい。

そりゃ人間の性格だもの、単純に内と外で仕訳けてOKとはならないでしょう。

いや。勿論自分の中でだけ色々考える。考えるんだけれども、それが次なる行動、外からも見える行動のための準備ってこともある。そのように、明らかに次の段階、特に外から見える行動を意識してやっている自己内対話なら、出口を全く考えず、自分の中だけで思い悩み続けるのとは違うでしょう。

そんな感じ。

まあいずれにせよ内心の問題はややこしい。

分かっているのはその人だけだし。

外見上はただ思い悩んでいるだけにしか見えなくたって、次の瞬間、本人の中では何かが閃いて、具体的な行動につながるかもしれない。それも誰がどう見ても積極的・肯定的な効果を伴うような。

【やさしい社会】を目指したい私としては、Introvertとか内向的とかいうものを、四角四面に「あんまりよくないもの」とは見て欲しくない。

どちらかというと、必死に「そうじゃない」ってアピールしようとする方が弱っちく思える。

ま。そういった弱さも含めて人間らしさといえばそうなんだけども。

敢えて「マイナスのもの(例:Introvert)」を設定して、さらにそれを「そうじゃない」と否定しようとするってのはさ。

ムダ。

暇つぶしにはいろんな方法があるとはいってもね。ムダ。

内心の問題をややこしくするものとしては、あと、信仰の影響ってのがある。

誰と喋ってんの?ってやつね。

自己内対話とかいうけどさ。

必ずしも「自分自身」と対話するとは限らないわけさ。

そんなの本人にしか分からないんだけれどもね。

でも案外白い人たちって、勝手に神さまみたいな人と話すというか、告白して済ませちゃったりする。

対話してないわけさ。自分自身みたいなもんとはね。

弱いっていうよりも、敢えて知能を働かせていないという意味でバカで無責任って感じ。

ようそんなんで四十年も五十年も六十年も生き永らえられるな、と感心する。

そんなにイヤなら死ねば?ってマジで思う。

何がイヤかって?

自分自身さ。

面倒なんでしょ?

よく分かんないから。

分からない方が楽って部分もあるし。醜くてどうしようもない部分とか特に。

なもんで簡単に神さまにぶち投げるわけよ。そういうめんどっちぃもんは。全部。

何故死んじゃいけないか?とかね。。。

自分の頭で考えないで、神さまに答えてもらうわけ。

気色悪い文化だよね。

しかしそれを白い人以外までもが礼賛するようになってしまっているという。。。

もう無茶苦茶。

楽だから仕方ないと言えば仕方ないとも言えるけど。

暇の潰し方の観点から評価するなら、下手くそよね。

神さまなんて信じてない?

そう?

でも似たようなもんでしょ?

前にコロニアリズムってタイトルで記事書いたんだけどさ。

これ書くきっかけになったのって、とある日本人が、フランスとかフィンランドとかで哲学っぽいこと勉強してて、勉強すればするほど発見がある♪とか言って喜んでいるのを読んだこと。

すんごいいいことなんだけどね。

ちょっとアンバランスに思えたのさ。

キリないわけよ。勉強なんて。

やればやるほど見えなかった繋がりとかが見えてきて、哲学なら哲学内の体系の物凄さが分かってくる。

それ自体はいいことなの。間違いなく。

でも喜んでばっかりもいられないさ。

だってその手の喜びって。。。あたかも自分自身が勉学の末手にしているように見えて。。。

予めそこに既にあるってことが分かっていることなんよね。

どういうことか?というと、私が出くわした記事の人もそうであるように、お師匠さんみたいな人がいて、その人には既に見えている世界なわけ。

伝統を繋いでいくという意味でもいいことではあるのだけど。

それみんながやるわけ?賢い人が???

確立された学問の体系って。。。たいがい人間見ないわけよ。

本来それじゃダメなんだけどね。書物読みながら人間のことを感じる。考える。

けれど、ただ体系を整えるだけなら、別に考えなくたってできないことはないわけさ。記号間の整合性を整えるなんてね。

まあノー天気に映ったわけね。私の目には。

究極的には勉学って自分自身との対話だと思う。

勉学を続けていれば自己内対話は続けられている。その人が意識していなかったとしても。

ただ。意識しないってのは不十分。

記号間の整合性を丹念に見るのと、何の興味でもって、記号を見続けているのか?を問い続けるのとでは微妙に思えるかもしれないけれども大きな違いがある。

あくまでもシェイプするのは自分自身であって、学問体系ではないのよ。

自分自身について学ばないなら、学問の意味なんて半減してしまう。

そんな記号間整合性を整えるだけの学問ではあっても意味はある。

でも大して難しいことじゃない。

結局整えられることが分かっていることだから。

そこに否応なしに割り込んでくるノイズみたいなもん。それに付き合って行くのが難しい。

ノイズみたいなもん。

人間ね。

しかも他者ではなくて自分自身。

これと付き合って行くことに最高の面白さを見る。

そうではなくて、あくまでも歴史と伝統とに裏打ちされた学問体系をどこまで極められるか?の方に優先順位が置かれるなら。

学問なんて語るべきではないのさ。本来。

答え分かっていることに地道に取り組めるのって、それはそれでスゴイことだけどさ。

全員がやんなきゃなんないこととは思えないし、事実そうはならない。

もっと上手な暇の潰し方があるわけさ。

で。

それは何と言っても自己内対話。

自分自身と対話しているつもりの人も。

ちょっと実際のところどうなっているのか?見直してみる価値ありますよー。

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Hakushi Hamaoka

動的平衡の社会学

私たちの社会を構成する関係性は全て非対称で非平衡。「社会を分析する」とは、動的平衡のプロセスを精緻に観察することから始められるべき。
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