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無理難題

「異なるヴィジョン」(→https://note.mu/hamaokahlisboa/n/n34dabfd2de23)なんてものを書いたこともあるけど、まだまだどーも具体性が乏しい。

とある著名ブロガーさんの記事を読んでいて、ちょっとヒントになりそうなことがあった。

ブログライティングが、検索ワードを盛って盛ってのアクセス数メインではなく、折角書いていることの、より本質的なもの(文章から漂う爽やかさみたいなものも含め)が評価されるようになるには、どうすればよいか?

専門性、蓄積された知識、系譜、ルーツ、縦(歴史?過去~現在~という繋がり?)
外からの批評より内で蠢くプロセス?

系譜学(Genealogy)ってあるけど、繋いでいき方はある程度専門的になってしまうってことでまあ仕方ないとして、肝心の繋がれるべきものまでが既に”専門”と呼ばれているものとか”既に蓄積されたもの”とかに依存してしまうのはどうしようもないのかなー?

フツーフツーって言っても、フツーを書き表そうとすると、”専門”とはいわずとも、既に蓄積された知識を拾わざるを得ないのか?

でも”既に蓄積されているような知識”でないもの、そこからどうしても零れ落ちちゃうようなものこそがフツーだとしたら???

既に蓄積されているもの全部とはいわずともかなり全体的に拾い上げた上で、「ここ。この辺カバーされてませんから。これがフツー。」って示さにゃならんのか。。。多分。。。

チャレンジング過ぎる。。。

驚天動地のパラダイムシフトが必要???

そもそも「知識を繋ぐ」って言ってしまうと、知識って繋がれるモノのようなもんなの??ってのがさ。。。現パラダイムのような気がする。

知識こそが、いろんなものを繋いでいる何か、というと名詞っぽくなるので、もう思い切って言ってしまうと、知識ってのは実は「『繋ぐ』という動作・作用」なのでは?

そこで、情報とかデータとかいうものにも再定義の必要性が。。。

この世に情報とかデータなんてモノはなくて、情報とかデータとかってのは残骸なのでは?残骸というか、岩石を割ったら見られる模様とか、地層の層(の積み重なり方)とかと同じようなもの。

例えば、DNAって生き物の設計図みたいなもので、基本的にその設計情報に従って形作られその他機能や動き方も決まってくる。実際は個々の置かれた環境とも交信しながら。

でもそういう説明というかイメージの仕方って本末転倒というか、物理学とかからの流れをぶった切ってしまっている感じがする。

DNAだってモノだ。物理学で扱うところの。で。DNAだけでは当然ながら生き物の体は形作れない。ということは、DNA以外のモノだって沢山ある。沢山あるだけじゃなくて、DNAに従って体とかが形作られるぐらいにはそれらのモノどもは存在していなければならない。当然様々な代用もあり得るので、いつでもどこでも全く同一の構成要素(モノ)であるとは限らないけど。

ということは、形質形成の主役は実はDNAじゃなくて、それ以外のモノどもで、そいつらが繰り返し同じような動きをする(同じようなプロセスで同じような形を作る)から、その余波を受けて発生するパターンがDNAなのでは?

で。結局どっちが主役か?は判らなくなる。どうしてかというと、DNAを構成するようになるモノ(タンパク質)も、それ以外のモノも、当然関連性を保ちつつ、うねるように動き続けるから。”うねるように”というのは、時間の経過とともに部分部分で主従が相互に入れ替わりながら運動し続ける。それが生き物という自己を再生産し続ける(ように見える)モノどもの動きのパターン。

これを情報と我々人間との関係になぞらえてみると、DNAが情報で、それ以外のモノどもが人間。

情報化社会と久しく言われているように、人間の様々な活動がかなりな部分情報に統御され得るから情報についてよく考えてみましょう、という大まかな流れが見て取れる。

ここで情報はモノ。

よって、これを上手に使いこなせるように情報通信技術が開発されてきた。

とりあえずはスピードと量。圧倒的に大量な情報(電気信号化された)をイナズマのような速さで可能な限り多くの人間が同時的にやりとり可能とする。

そうした技術開発の過程及びそれらを使用する中で分かってきたことは、

情報は原理的に”非”排他的で、

異なる人間同士が情報を情報と認識し合うことによって情報として機能する、

というのがハイライト(ではないか?と個人的には考えている)。

したがって、情報を巡る理想というのは、

誰もが自由にアクセスできて、誰にとっても分かりやすい

ということ。

もう言ってしまったそばから無理、、、って感じてしまうのだが。。。

まあ理想とは程遠いとはいえ、使っているうちに分かってきたことだから、事実そのような傾向を示してはいる、ということだろう。

知的所有権とか情報セキュリティの壁は漏れなく乗り越えられるし、世間で有用とされる情報は偏る(結構極端に)。

でだ。ここで考えていることは、現在は、人間が情報に相当な威力(自分たちの振る舞いを決めるモノとして)があると見て、かなりな量の情報を利用しようとしている。その関係(情報量が主で質(人間による解釈)が従)がどううねって反転し得るか?

人間(質)が従とは言ったけど、人間は明らかに情報の方をモノと見て利用しようとしている。(そう考えている。)

見落とされがちなのが、そうした見方が情報のクォリティを落とす可能性が高い、ということ。

何故なら、情報はあくまでも人間が動いた結果発生するものなんだけど、この人間の側からの関わりについて、ほぼ無というか、一人一人の一つ一つの行動、という単位では考えられていないから。概ね、一定の数の人間が認識可能なパターン(既にある程度抽象化されたもの)の単位で考慮に入れられている。(ガブリエル・タルドとデュルケムの違い?)

違いは何???

情報にもしも単位があったとするなら、その単位当たりで扱われる情報量。

情報量というか情報に必ず含まれているであろう要素の種類かな?

まずは”善い/悪い”で、「分かりやすい善い」に人々は殺到する。でもこれは最初っから”善いもん(正義の味方)”でいたいとかじゃなくて、単にその方が安全安心に近づけると期待できるから。なのでこの場合は善いというより「正しい」とか「正解」の方が感覚的には近いはず。とあるモノゴトの理解(仮説)が当たっているという感じ。さらに、「当たり」というからには、秘伝の書の奥義とか問題集の解答集の中にある正解だけではなくて、その人が置かれている状況下での「当たり(/外れ)」もある。その他の人がどう言っているか?考えているか?など。あとは生存に不可欠なモノ(食料とかカネ)になりそうかどうか?が十分分かる手がかりみたいなもの

安全安心はまず気分の問題。さらに追加の情報を探り続けられるとか、ともかく情報源を確保できているかどうか?もっとシンプルに言えば、信用できる人間(仲間)。別にモノ(本とか)でもいいけど、多分聞けば答えてくれる方が頼りにはなるはず。そういう人間が周りにいるかどうかによって、自分自身に関する情報の得られ方も変わってくる。で、この自分自身に関する情報(アイデンティティとか呼ばれるもの)も安心安全には結構重要。

「分かりやすい善い」に盲目的に殺到していると、気分気持ちの安全安心だけのつもりでも、実際どうか?に関わらずいろんなことが安全に感じられもする。当然一番難しいのはモノ(食料とかカネ)に関する安心安全だけど(現物が手に入るか?入らないか?は現実の問題。なんぼ「そのうち手に入る」と言われても、また、それを信じていられるとしても、現にないものはない)、とある仲間に属している(みんなで殺到している)ってことが、何故か世の中のモノゴトを正しく理解できていることになったり、正義になったりはしょっちゅうする。こーいうのってたとえ気付いていたとしても仲間の考え方とかまで修正できるか?というとそんなに簡単ではない。それぐらい安全安心って重要で、これが脅かされるとなると人間はまず防衛に入る傾向がある (一旦得られた安心安全を易々とは手放さない)。

今最も分かりやすいのはおカネ。こーすればおカネになるというのが信用できるならわさーーーっと人々は殺到する。実際本当にカネになるかどうか?というのは必ずしも確約されてはいないけれど、まずは安心安全と感じたいわけだから、そんなのは重々承知の助。実際カネなんて全く眼中になくて趣味とか理解とかを共有できる仲間が目的の人だって沢山いる。出会えてコミュニケーションとれればいいのさ。手近にとある種類の人間が定常的に集まってくるような場所がある。でもその趣味とか理解とかにちょびっとでも箔(権威とか評判)が付いておればより信用しやすいって人は多いし、単に多くの人が動員されればいいってことならやっぱり評判とかカネになりそうな情報は強力。勿論ホンモノを愛でたいような人もいるし、評判だけが全てではないけれど、そういう人たちのコミュニティは比較的地味にでも稼げる。しっかりと積み上げられた知識自体が”資産”になっている感じ。まあ続いておれば商売上手な人が売りに出したりもするだろうけれど、その辺(ブームになるかどうか?)は運だろう。

おカネも満遍なく行き渡らないのはそーいうわけ。え?何?

ポイントは仲間ですよ仲間。

わさーーーっと殺到する時、個々はカネにも期待はしているだろうけれどまあ二の次。だけど、殺到自体を商品化出来る人っていますから。同じ”おカネへの期待”でも中身も具体性もまるで違う。

商品化自体が善いとか悪いとかはケース・バイ・ケースなので一口には言えないけれど、みんなで使える情報ということを考えると、おカネになりやすいモノとかって状況によっても変わりやすいし、後々あまり信用おきにくいと思うのよね。何度も使えないというか。それって情報としての役割をもはや果たせない、ということ。で、そんな”情報”しか残せないのか?一人一人は???さらに、商品化って動員が主目的で、おカネにしたって、集めた後どーするか?っていうと多分また動員のために使うんだと思うんですよ。でね。結局それってジリ貧なんでは?と。

多くの人々は安全安心を求め、何の物的金銭的保証もなく動員されているだけだとしてもそれは 得られる。でも、そうこうしているうちに世界の理解とかは実情どうか?に関わらず分かった感じになって、よって、厳密な分析とかもしなくなり、そして肝心の生きるための糧にはアクセスしにくいまんま(そもそも困ってないならそれは”単に動員されている人々”とは違う。どっちかというと儲ける側に近い。サクラ的な場合も?)。物的に困窮する中で、各々が正義まで我にありって思ってしまってたら、貧しいもの同士の闘争にも発展しかねない。さらに悲劇的なシナリオは、そうした闘争までもが(もはや商品化ではないにしても)動員(例:国家的動員。戦争もですね。。。)に利用されてしまう、というもの。。

分かりやすい情報にわさーーーっと殺到でなくて、「分かりづらいけれど大切な情報」を分かりやすくする努力って大事なんじゃないか??

やっぱり、人間と情報のどちらが主でどちらが従か?という二項対立式モデルは分析に向かない、というか現実を説明できない。

行動して情報の素(もと)を絶えず作り続け、別の誰かがそれを情報と解釈し、それが行動にフィードバックされて、、、、という創造的なプロセス。

安全安心感を与えつつ、それを礎にモノゴトを理解し、周りの人々が抱いているであろう仮定と自身のそれとをすり合わせ、それを通して生きる糧にアクセスしやすくなる、なんて夢のような方法はないのか?

カネがあれば各々安心安全を確保する工夫をするか?

するなら、今のように与えず御託を弄させ結局動員にしか使われないような情報を作り出させるよりもよっぽど社会的、そして多分経済的便益も高いのでは???

安心安全を動員的情報に依存しない?

コントロールしたい人の視点に立つと、コントロールすべきは、どんな情報?

安全安心の意味を教育する?

私たちはどのようにして安全や安心を得ているのだろうか?

情報を利用しようとしているけれど、情報の内容や、どのようにして情報が創られているのか?についてよく理解できていないのではないか?

安全安心を求めて行動することによって情報の素(もと)が生まれる。けれど、安全安心は、マズローの階層的欲求が説明するような、個人に生まれながらに備わった欲求に基づいて追い求められているのではなく、「何かヘンだぞ?」とか「ありゃりゃ。困った。」みたいな素朴な感覚が、何らかの刺激によって呼び起こされ、辺りを探るような感じで動きながら、「ああ。自分多分こうしたいってこと?そうだそうだ。」みたいな感覚が得られて、”欲求”なんて名前が付けられるのでは?

一口に安全安心といっても、既に複合的な意味が乗っかっている。生きていくために不可欠なモノの有無・多寡。アクセスのしやすさ・しにくさ。異なるタイムスパンで異なる安心感・不安感。自分は何者でどういった人々に囲まれているのか?置かれた物的環境はどうなっているか?どれもこれも単独でバラバラに認識されているわけではない。

個人個人が実際にどのように動くか?にしても、何でも必要と思いさえすれば独力でゲットできるわけではなく、他者や様々な道具、制度、はたまた気象条件など自然環境だって活用しようとするだろう。そんな日常の創意工夫の中でも、人との関係づくりは重要。おカネやチカラはあまり要らないかもしれないけれど、そういった何気なさがために、求められ実際に駆使している技術も細やかで複雑に違いない。

常に意識的に考えて行動しているわけではないけれど、きっと相当大量の情報を扱い続けてはいるはず。

意識していないことを暴いて驚かせるのではなく、情報が勝手にやってくれちゃうことを、長短所ともに説明する。

情報は曖昧さを薄めてくれもするけれど、決着は付けてくれない。だからこそ注意が必要。人間の側の安全安心へのバイアスを強めてしまうから。沢山持ってさえいれば安心感を感じたりする人もいる。結構沢山。

とある情報と別の情報とを照合しても事実は分からない。結局「事実」と確認できた後どうするか?が大事。確認された「事実」をもって自己利益増進を図るか?それともさらなる情報収集に役立てようとするか?前者はエンフォースメントで後者はコラボレーション。前者がエンフォースメントだというのは、「事実」を確認して自らが安心するのみならず、さらに安心安全を強化する目的で、他者にも「事実」であることを宣言し、受け入れさせようとするから。後者のさらなる情報収集というのは、「事実」を踏まえた上で、さらに別の情報ソース、つまり、他者、を当たって、同じか或はまた別の「事実」確認をして安心して、、、という延々継続する他者との交流自体に意味を見出す。肝心の物的利益にありつけるか?も割りと率直に話し合われることが想定されている。交流が継続することに重きをおくなら、嘘はつけないでしょ?

「分かりにくいけれど大切な情報」というのは、人間の安全安心に関する情報。分かりやすいおカネとかモノ(衣食住に必要なもの)についての情報だけではない。もっと分かりづらい情報。いろんな要素が絡み合った情報。

出発点は不安というかよく分からないモノ・コト。

分からないから動いてみる。

でも、不安と呼ばれる何かがあって、これが殲滅されるようには動いていない。そのようにイメージする人も多いと思うけれど。

人が作るモノ、捨てられるモノを追えば情報の正体が分かるか?

着実に積み重なる方向に惹かれにくいのは何故か?積み重ねられたものの貴重さはかなり広く理解されている印象があるが。。。排他的に感じてしまう??独自の貢献が感じられにくい?飽きやすい?

おもろそーなもん、刺激的なもんに反応する。

着実に積み上げたりしないのがフツー?

田舎の爺さんたちは意識せずに積み上げている。

意識がある状態で積み上げるのは困難ということ?

ふと振り返って積み上がったものの価値に気付いて、それを継いでいこうと思える人、実際にできる人は幸いである(引用した著名ブロガーさんのように)。

でも、大多数の人は実は積み上げられない。だから、次々と目新しいものを探しては、何か価値あることをやっているかのような気分に浸りたがる。そういう振舞いこそがフツー。このフツーには、哀愁が漂っている。分かっちゃいるけど止められない。拾いたいけど流されて行ってしまう。折々に気付く、自分をただの消費者に貶めていることからくる空虚感。消費しているのはモノやサービスだけでなく、意味。自分なりに獲得した意味などなく、ただ世に出回っている情報(分かりやすい安全安心に関する情報。とりあえず大勢の仲間に入っとけや。)を消費していく。本当は自分なりの意味ってあるんだけれど、価値(意味)ないってことであえて無視するか、本当に見えていない。

意識的に積み上げるのは苦手でも、無意識的に積み上げているものは絶対にある。誰にでも。

フツーの人々にとって大事なことは、やはり自らが当たり前とやり過ごしているモノコトの中にこそあるのではないか?

新しいトレンドを追いたくなってしまうにしても、そうなるいきさつはきっと一人一人違うはずで、その違いって一人一人のクセみたいなもんだったりする。知らず知らず積み上がっているモノ。

知らずに積み上がっているんだから、多分世の中には既に名前の付いた似たようなモノがある(つまり、他者でも解釈可能)。無意識のうちに取り込んでいる可能性が高い。世の中のどこにもないような独自のモノならきっと無意識には積み上がらない(これも、積み上がったものがあれば他者でも解釈可能である根拠)。

つまり、既に世に出回っている名前は、別にありふれたつまらないことを確認するためのものではなくて、気付いていなかった何かを探るための道具。自分独自の要素は必ずあって、それを見つけるためにも、世にありふれたモノコトとされているものを見てみるのも悪くはないはず。

手っ取り早く自分独自のモノを捏造してしまおうとするのではなく、無意識に積み上がっているがために、その価値を認めていなかったモノの中に独自の価値を見出す。無意識に積み上がるぐらい真実だし、世に出回っている名前で呼べるようなありふれたモノであるからこそ、自分のものと他人のものとの間の違いだけでなく関連性も知ることができるはず。

専門や既に積み上がった知識を受動的にインプットするのではなく、自分自身の未知の部分を掘り起こす感じ。

大事なこと。既に専門的知識、確かな系譜を構築している知識に詳しい者の役割。

みんなが等しく専門とか確かな系譜のある知識をフォローできるわけではない。

手伝ってあげなければならないはず。でもどうやって???

学校教育には頼れない。

純粋培養の研究者も不適格。

権威が先立つから。

教えるのではない。トレーニングというのもちょっと違う。

読んで書き表してあげる。代わりに。独自の価値が生まれる可能性を指摘する。論理的・実証的に。

そのためのモデルがトライアディック・モラリティ(道徳を(1)唯一無二性と(2)交換可能性との間の不可避の(3)葛藤と見る。葛藤しているのが私たち。またの名をWeak analysis)?

テーマは政治倫理かなー。ほんとはハッピーになるためなら何でも活用できると思うんだけどなー。。。

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もう一度。

DNAが始めにあるのではなく、その素は、かなり多様なモノどもが残すパターンが記録されたもの。生き物の形質形成プロセスでは、情報だって具体的なこの世にある物質で伝達し合えるんだろうけれど、人間とそれが扱う情報って別に情報と人間とをつなぐような物質があるわけではない。空気の振動とかは勿論あってそれらを鼓膜とかで感知はするけれど、空気の振動の仕方と人間をとある方向に動かしている筋肉の動きが直接つながっているわけではない。常に様々な情報伝達(解釈)過程を経る。

いい加減に生きていればいい加減な情報しか生まれない。情報は人間の動き方次第で生じるものだから。

いい加減に生きるとは?

そりゃ分かりやすい情報に基づいて生きるってことでしょう?分かりやすい情報に基づいて生きるっていうのは、そうしていることにも気付かなくさせるし。最悪じゃん???でもない???

情報が環境の変化をより詳細に反映するように。同じデモをするにしても、参加への圧力をかけて動員を図るのではなく、より危険な動員を(知ってか知らずか)企んでくるような動きを止めさせなければ。多分同じ動員のロジックを採用しておれば、そのまま権力差で利用・被利用関係が決まってしまう。デモる人たちは、動きがイマイチ鈍く見える人々の代弁をすることによって、対抗した方が効果的なんじゃないだろうか?

ともかく、情報を情報と認めるのは人間。しかもその素(もと)となる行動は、理屈や”欲求”などの名前以前にとられてしまうこと。ここは権力関係の上も下もなく共通に理解しておかなければいけないのではないか?何かモノコトを見て、ぱっと言葉にして説明が付けられるような人たちは、それこそがパワーの源なんだということ、であるからして、なるべく抑圧的にならないように使えるよう注意すべきなのではないだろうか?

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