見出し画像

エッセンシャルワークは本当に「エッセンシャル」か?

という場合によっては不謹慎ともいえる問いを、改めて検討してみる。

昨今、そこかしこで「社会を支えている、彼らなしでは社会が立ちゆかないエッセンシャルワーカーたちの賃金があまりに低い」という声を耳にする。

「賃金があまりに低い」という感慨には、その逆の「本当は要らない仕事なのに、そういう仕事に限って謎に高収入である」という事態が暗に念頭に置かれている。そういうのは今日「ブルシット・ジョブ」(クソみたいな仕事)という便利で的確な言葉をあてがわれたりもする。

職業に貴賎はない。そのうえでしかし賃金や収入に格差が出るとすれば、それは、重要で必要な仕事にはそのぶん高い収入が約束されるべきで、反対に、まあ不要不急というか、なんなら社会に害悪すら与えているのではないかと思いたくなるような仕事(◯ッグモーターとか)は、その分賃金が安くなければならない。それが人情というか道理というものだが、しかし現実にはそうなっておらず、むしろ真逆である。そんな状況を嘆じて、「エッセンシャルワーカーの賃金があまりに低い」というもっともな感慨が去来するのだろう。

たしかにこれは謎な事態だし、社会問題化するのも十分な合理性がある。できれば、この矛盾した事態を解決したい。

解決したいのだが、一方で、そこには何か根強い力学のようなものが働いている予感もある。ずっと同じことが言われてきた。どうして社会のため、人のために一生懸命頑張っている人がそこまで報われないのか、と。明らかにおかしなことなのに、そしてそのおかしさをこれまで数多くの人が指摘してきたのに、現実はずっと変わらないままだ。

しかし、こういう現実がこういう現実として相も変わらず持続してしまうのは、この世界が間違っているからではなく、もしかするとそういう現実を支える合理性がどこかに隠れているからかもしれない。隠れているとすれば、それを何かしらの仕方で言語化し、可視化してみるのもひとつの仕事かもしれない(誰も求めていないと思うが)。

・・という観点でチョット考えてみると、浮かび上がってくることがある。

ある意味、簡単というか身も蓋もない話なのだが、エッセンシャルワーカーは、エッセンシャルじゃない仕事をしている人たちのおかげで食えている、ということだ。

エッセンシャルワークは、一言でいえば、生きていく上で必要不可欠な仕事であると同時に、誰でもできるといえば誰でもできるような類の仕事である。高齢者の介護や、小さい子どもの保育、商品の運送・配送など、生きていく上で欠かせない仕事は多い。しかしそれらは、自前でやろうと思えばやれる仕事だし、現に自分自身でやっている人はいる。プロじゃないのでクオリティはまちまちだが、自分でやるのでそもそもクオリティは求めていない。一人暮らしをして自炊しないといけなくなったときに、めんどくさくて菓子パンやカップ麺ばかりに頼るようになっても、「とはいえこれでも生きていけるっちゃいけるよな」となるのと同じである。それをプロがやると叱られるというだけで。

エッセンシャルワークは、生きていくうえで誰もが必要とする仕事でありながら、別に自分でもできるっちゃできるタイプの仕事である。賃金労働としてのエッセンシャルワーク、職業としてのエッセンシャルワーカーが成立するのは、だから、「自分でもできるけどやらない、やりたくない」という人が社会に一定数存在するからだろう。

生きていくうえで必要な仕事で、自前でもできるしやるべきなのに、「私はやりたくないんです」という人は、いったいどんな人なのか。おわかりだと思うが、それは、「エッセンシャルじゃない仕事で忙しく働いてそこそこ稼げている人たち」にほかならない。

現代社会は「働かざるもの食うべからず」の世の中なので、みな何かしら労働というものをしている。中には良い仕事も悪い仕事もあるだろう。重要そうな仕事もそうでない仕事も。いずれにせよ、労働によっていわば「多忙的に生きる」ことで、ひとは日々疲労し、すべてのことを自前ではまかなえないようになっている。とりわけ都市化してサービス業が全面化した現代社会ではそうだ。

一種の思考実験として、もし仮にこんな分業・労働社会から人々が解放されて、自給自足で全部自前でやるようになったら、エッセンシャルワーカーはもはや食っていけないだろう。誰でもできることを必ずしもやらないのは、他にやるべき仕事があって忙しいからだし、もっといえば時間を買うだけのお金があるからだ。非エッセンシャルワークで忙しく働いてそこそこ稼いでいる人が、(自前ではやらないという)怠惰を正当化することによってはじめて、エッセンシャルワーカーは需要される。あるいはその存在が、多忙な人間の怠惰を正当化してくれる、とも言える。

エッセンシャルワークは、それを欠いては社会が立ちゆかない極めて重要な仕事である。だが、そのとき念頭に置かれている「社会」とは何だろうか? 多くの人が非エッセンシャルなことに打ち込んで、毎日疲れ果てた挙句、つい誰かにサービスをお願いしたくなるような社会・・のことではなかろうか? 逆に、みんなが、自分のことは自分でやる「立派で健全な」社会では、エッセンシャルワークは職業として成立しないのではなかろうか?

エッセンシャルワークこそ、実は、非エッセンシャルワークに依存している。変な話、エッセンシャルワーカーは、非エッセンシャルワーカーを「エッセンシャルしている」のである。

翻って、エッセンシャルじゃない仕事に従事している人は、エッセンシャルワーカーに頼らないこともできる。クオリティも常に求めなくていい。サービスはありがたいけど、「そこまでしてもらわなくても」と逆に恐縮する場面も多いし、ふつうの生活者としては「いらんことしてない」っていうのもけっこう大事だったりする。非エッセンシャルワーカーにとってエッセンシャルワーカーは実は深いところではエッセンシャルでない。エッセンシャルワークは、いっさいを商品化するこの資本主義経済を追認し、それに乗っかるかたちで、かろうじてその社会的有用性を確保できているのだ(真顔)。

エッセンシャルワークは、それと名指さず勝手に本人がやることもできるし、また賃金労働のかたちで他人にやってもらうこともできる。本人の意思次第では、エッセンシャルな活動を時々「スキップ」したり、また自分自身でやる場合、そのクオリティを自在に下げたりすることも可能だ(食事をポテチや菓子パンで済ますなど)。そうした「選択肢」にさらされているがゆえに、サービス業としてのエッセンシャルワークはどうしても立場が弱く、低賃金に抑えられてしまう。


いわゆるブルシット・ジョブを批判するなら、そんなしょうもない仕事が存在できてしまう、そんな仕事に高い報酬が払われてしまうことを批判するだけでなく、ほんらい自分でやってもいいはずのことまで商品化されて、エッセンシャルワークなるものが職業として成立してしまっている状況まで含んで、これを批判しないといけないのかもしれない。というか事実上、ビッグモーターみたいなのを嬉々として批判している最中にも、すでにそういうことをしているのかもしれないが。

問題の根はどうやら深そうだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?