見出し画像

斎藤幸平の「語り方」について

1月7日の朝日新聞朝刊を読んでいたら、「気候危機と人類の今後」と題した対談記事があった。東京大学の斎藤幸平氏と、社会理論家のジェレミー・リフキン氏のリモート対談だ。

記事のリードにはこうある。

世界各地で異常気象が頻発する一方で、脱炭素は進まない。地球を壊してしまうのか、それとも技術革新で解決できるのか。脱成長を提案する斎藤幸平さんが、「知の巨人」と評されるジェレミー・リフキンさんと、人類が生き残る道をリモート形式で語り合った。

朝日新聞「気候危機と人類の今後」より

「人類の持続可能性」というテーマは、最近、私もよく考える。この二人とは少し違う角度からだが、斎藤幸平氏が指摘するように、地球の天然資源の収奪は深刻であり、環境という観点から人類の未来を考えることの重要性は否定しようもない。

一方で、この記事を読んでいると、いろいろと違和感を抱く物言いが散見されたのも事実だ。

斎藤氏は、人新世という概念を援用しつつ、脱成長および資本主義からの脱却を唱え、さもなければ人類の存続は危ういと警鐘を鳴らす。人類の活動に起因するものとしての「気候危機」は、19世紀西欧の産業革命に端を発するというのが共通の認識だろう。斎藤氏も「19世紀の産業革命以降に気温が1.2度上昇してこれだけ問題が起きている」と指摘している。

産業革命以降のここ200年ほどで、それ以前にない規模で人類は自然環境を破壊してきた。しかし、問題は、その自然環境の破壊というものが、どのようにして進行してきたかをより精細に見極めることである。斎藤氏は資本主義や都市化を挙げるかもしれない。もちろんそれもあるのだが、もっと重要なファクターを見落としてはいけないと思う。

なんということはない。この200年間で、単純に人口が爆増したのだ。人の数が爆増するという仕方で、自然環境が破壊されてきたのである。

どれぐらい爆増したかというと、産業革命が始まったばかりの19世紀初頭では10億人、20世紀に入ったところでも15億人、それが2024年現在になると80億人にまで伸びている。200年間で8倍、100年間でも5倍強の伸び幅だ。

国連人口基金のサイトから

このエグい事実を改めて認識すると、産業革命以降の約200年間で人類が地球環境を破壊してきたといわれるとき、それは人類が資本主義に乗っかって自己利益を追求し、強欲や傲慢に歯止めがかからなくなったからだというよりも、単純に、尋常じゃないスケールで人間の頭数が急増したからだと考えてみてもいいのではないか。人口が増えれば、それだけエネルギーの消費も増えるし、相応の環境負荷が(資本主義とかは一旦おいといて)かかるのも想像できる。

身も蓋もない話ではあるが、自然に適応して地球を守ろうというときに一番手っ取り早いのは、そもそも「人類が減ること」なのだ。

でも、そういうことは斎藤氏をはじめ、気候危機を訴える論者の口からはあまり出てこない。「人口が増えたから環境問題が起きた」だと、「じゃあ戦争バンバンやって人口削減しろってことか?」となりかねない。そういう路線ではものを言えないので、「私たち一人ひとりが意識を変えて社会を改革し、気候変動を食い止めましょう」というヌルい言い方になってしまう。

仮に、200年前と人口が変わらなくて、「俺たち、この200年間ちょっとやりすぎたよな。一人ひとりが意識高めて、地球に優しい暮らしを実践していこうぜ」と言えるならいいのだが、現実には、8倍も増えてしまっている(俺たちって「誰たち」?)。単純に考えれば、生活水準を8分の1とかにしないと産業革命以前に戻れないが、そういう「清貧運動」が普遍的訴求力をもつことは想像しづらい。


人類が滅びないためには人口削減しかない(矛盾してるけど)。でも、そんなことはとても提案できない。詰んだ。人類の滅亡を我々はただ指をくわえて見つめるしかないのか(絶望)!

ともなりかねないが、しかし、実際はそんな悲観的な話でもないと思う。というのも、人口がこれだけ爆増した割には、気温はそこまで上がっていないとも言えるからだ。

単純に、人口が8倍になったから気温も8倍(!)になったかというと、そういうわけではない。言われているのは、産業革命前から1.2度上がったみたいな話で、割合で言えば10%もない。人口は8倍だが、気温は1.1倍にしかなっていないのだ。産業革命が起こり、人口が爆増し、エネルギーが大量に消費されるようになり、地球環境にも影響を与えるようになったが、その影響というのは、せいぜい(すべて人間のせいだと仮定しても)10%くらいの影響だと。人口の増え方(700%)の割にはしょぼいんですよね。しかもその人口も、今世紀にはプラトーに到達しようとしている。

それでも、人類は多くの生物を滅ぼし、生物多様性を損なってきたといわれるかもしれない。しかし、地球全体の生命の「総量」は、そんなに変わっていないんじゃないか。以前より、地球が、人類という種を通じて自己表現するようになったと汎神論的に解釈することも可能である。そのいわば「結果」として、コウモリ起源といわれる新型コロナウイルスが新たにヒトを宿主として広がっていくことにもなった。ウイルス目線で見れば、宿主がヒトであるかコウモリであるかは関係がない。いずれも同じ「自然」であり、自然がそれとして「表現される仕方」が少し異なるだけだ。人間も他の生き物からしたら立派な「自然」なのである。

また、激甚災害が増えたんじゃないかという観測もあるが、そりゃ、人口が増えれば数の上での被害は増えるし、人口が増えた分、かつては住まなかったようなエリアにも住むようになったわけだから、不測の災害には遭いやすくなってしまう。世の中が安全で豊かになりすぎて、稀に生起する災害を認知的に許容できなくなり、世界中でとんでもない災害ばかり起きているように見えるだけだ、というのもあるだろう。


最後になるが、全体に、斎藤氏やリフキン氏は、環境問題を考えるに際して「あるべき本来的な姿はこうで、このままいくと未来に待っているのは破滅だ」型の議論を展開しているように見える。終末論的説教師みたいになっているわけです。これは彼らに限らず、知識人や宗教家に典型的な話法でもあるわけだが、こういうタイプの議論は、得てして人々の不安を駆り立てて大義へと動員する方向に傾きやすい。この記事でも、斎藤氏は「危機」や「絶望的」といった強めのワードを何度も出しているが、私としては、こういう、滅びに関して予断をもつ生き方は反生命的だと思う。

知識人や宗教家が、その善意にもかかわらず世間から警戒され嘲笑されるのは、そういう理由がある。しかしそれは「健全な反応」というべきで、世間の人々は、人間的な尺度で論じていいこととダメなことを無意識のうちに体得していて、たとえば目に見えないウイルスだったり複雑系の地球環境だったりといった問題は、そもそも人間的スケールを超えたものなので、そういう領域では人間の尺度や概念でものを論じてはいけない。そういう節度(マナー)を直感的にかしっかり身につけているのだ。

人類が何億年後に滅びようが、百年後に滅びようが、はたまた明日、滅びようが、「自分は十分生きた」と満足できる生き方を育む。そういう方向性で人類の持続可能性を考えることも可能である。未来の子孫たちは私たちが考えもしないような新しい仕方で世界に適応して、なんとかうまくやっていくだろう。現代に生きる私たちは、あまり気負わず、せいぜい彼らの邪魔をしないであげようと心がけているくらいがちょうどかもしれない。

可能性でしかない未来から現代人を「説教」するよりも、「未来の未知性に敬意をもつ」というところから、次世代への倫理を考えたい気がしている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?