5.死にたがり行進曲

私がもし魚類に生まれていたのならマグロかイワシだっただろう。泳いで進むことでしか生きている実感を感じられない。目的地がないと前に進めない、理由や大義がないと価値を感じられないそんな人間だった。

中学時代にみんながこぞってしていたゲームを始めた。「これをすることでどんな意義があるのだろう」と考えた瞬間からゲームをすることが無為な時間に感じられてできなくなった。当時は勉強か部活動しか意味のあることに思えなかった。それはただ真面目だったというよりもその方が"学生らしい"と思ったからだった。私は模範であることに固執するあまり本質なるものを多く見失ってきたのだと思う。

義務教育の目的は"勉学"、大学ではその先の"社会への準備"。
模範とされる行為、求められるものを用意してきた。結果、自分という大切なものを置き去りにして。

社会人になってからも同じだった。求められる成果を死に物狂いで勝ち取ってきた。休日返上なんて安いものだぐらいに思っていたし、当時の自分が他のどんな新卒よりも優れている自負があった。結果として誰よりも早く出世して昇給した、"自分のしたいことを忘れる”という毒がもう全身を侵していることも知らずに。

ここからが後編。
私の働きぶりを見た当時の同僚からふと何気なくこんなことを言われた。
「貴方は何のために、なぜそうまでして頑張るのですか」と。
私は自身の頑張る理由を答えることができなかった。言うなれば頑張ること自体が目的であってそれに理由なんか無かったのである。
学校教育で模範とされるものはあっても、それぞれの人生に正解はない。それを求めようとすること自体がナンセンスである。そんな単純なことに気づいた。その瞬間から私は初めて自分の人生のハンドルを握った。

大学卒業とその後で人生を二分したときに長いのは後者である。
でもなぜか自然と知らぬうちに酷く短く考えていた。模範を求めて、生き様にこだわって、他人の眼だけをやけに気にした私は知らぬうちに死にたがりの行進を続けていただけだった。生きているというよりもそれは死に歩くだけだった。
大義や義務は確かに大事だが、そんなことよりも貴方が貴方だけが大切にしているものそれ自体の方がもっと大事なのだと。それは必ずしも楽なことじゃないし、楽しいことでもないかも知れない。その逆だって全然あり得る。もっと自分主義であっていい。ただそれだけ。

生き急いだ行進者はもういない。
田舎道や都会の喧騒を自分のリズムで歩けばいい。

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