9.匂いと香りと記憶の連鎖

場所にはそこ特有の香りがある。
東京と大阪と沖縄と地元の田舎を行き来していた時期があった。当時は「東京の匂いだ」なんて思ったのを覚えてる。
「そりゃあ鶴橋駅にいくと焼肉の匂いがするだろ」なんて声も聞こえてきそうなので、訂正すると場所の気温と何があるかも関係しているがやはり場所には特有の匂いというものがあると思うのです。

私の場合それは就活なんかで忙しかった大学時代。その香りで場所の雰囲気に自分を馴染ませる感覚。異質な自分を溶け込ませる感覚。その辺の感覚は少しだけ敏感になっていたように思うのです。
例えばその場に合わせて自分もチューニングしていかないといけない。それを自身の肌感覚で自然と行っている人も少なくないのではと思うのです。例に出すと私は東京ではわざとコテコテの関西弁や地元の訛りをしてみたり、沖縄や離島なんかでは若者っぽい言葉を使ってみたりしました。就職活動では外から来たことを強調させる為、離島でも外の人間であることを表す為。
小手先のことですが役に立ちました。郷に入ればなんとやらですが、敢えてそれの逆を行ってみるのもまたいいものです。
だからこそ、嗅覚を研ぎ澄ましてその場の香りを確かめるのです。ここがいつもと違う場所なんだという感覚を自分に刻み込むために。

なーんてことを大学時代は考えてました。そして、すっぽり忘れていたのです。所謂社会人となって、サラリーマンをしてタイピングや相手先や上司への対応、ビジネス知識なんてものは少しだけ詳しくなりました。しかし、その場の嗅覚や聴覚というものはどんどん廃れていったのです。社会に適応した人間であり、自分にはその責務があるという自負と驕りによって"場を読む"から"場に自分を出す"感覚に変わっていきました。それは進化であり退化でもあったのだと思います。社会人になった後に大阪を訪れた際に匂いなんて感覚は完全に忘れていました。

仕事に一区切りつけて大阪や地方を旅しました。その時に大学時代の嗅覚を取り戻したように思うのです。その瞬間に一気に色んな感情がフラッシュバックして自身の得たものばかりに意識が向いていた自分は失ってしまった感覚に目を向けさせられました。進むということは必ずしも前に向いているとも限らないし、何かをポケットから落として気づかないなんてこともしょっちゅうあるのです。

ある40代の本部長から話を聞いたことがあります。
「私は妻が子育てで辛く泣いている時も会社にいました、家に帰るよりも会社を選んだのです」
「今の地位を獲得した裏側には数えきれないほど、ないがしろにして失ってきたものがあります。だから、もし昔に戻ったとしても今と同じところに返ってくるとは言えません。妻には感謝しか――」
自分が前に進んでいる感覚は確かに大切で、がむしゃらに努力して進み続ける時期なんてものは誰だってあると思います。そこで立ち止まれなんていいません、ただ後ろを少しだけ見て落としたものを悔いる瞬間があってもいいのではないかと思うのです。それをないがしろにしてまで自身の成功を誇るような人間には決してなりたくありません。

結果からプロセスを全て正当化したくはないのです。ないものねだりだ、結果がすべてだなんて言われようとも、こんな我儘な自分を大切にしたいと思うのです。

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